屍介護 -シカバネカイゴ-

三浦晴海

第1話



 八月の山は気配に満ち溢れている。


 途切れることなく続くセミの悲鳴に、野鳥の甲高い声が切り裂くようにこだましている。


 谷川を流れる水の音は地鳴りのように響き、風を受けた森の木々は無数の枝葉をざわめかせていた。


 獣たちは柔らかな土を踏みしめて歩き回り、昆虫や虫類がその間で逃げ惑っている。


 焼けつくような日の光と蒸した大気の中、草や花や菌類や、他のあらゆるものがゆっくりと成長を続けていた。


 走行するワゴン車の後部座席で窓から外を見つめながら、くりあかねはそんな気配を感じていた。


 ただし、あくまで想像だ。


 一瞬のうちに通り過ぎて行く風景の中ではセミも野鳥も見分けられず、鳴き声も車のエンジン音と土のわだちを削るタイヤの音に掻き消されてしまう。


 谷川もここからでは見当たらず、森の木々や枝葉が揺れているかも定かではなかった。


 野生動物が自動車の前を横切ることもなく、それより小さな生き物など見えるはずもない。


 エアコンの効いた車内では外の気温や湿度も分からず、草花の成長など当然ながら知るよしもなかった。


 だから何もかも自分の勝手な思い込みにすぎない。


 八月の山はきっとそうだろう、という過去の知識と体験から予想しただけだ。


 それではこの気配も錯覚なのだろうか?


 脳内に生じたいつわりの感覚なのだろうか?


 それとも本当に外部から何かを感じ取っているのだろうか?


 目に見えず、耳に聞こえず、肌にも感じられない何かを……。


「栗谷さんって、イノシシを見たことはあるかしら?」


 運転席から声をかけられて、茜は窓から目を移す。

 これは気配ではなく、実際の声だ。

 ハンドルを握る女、たかさごふじが正面を向いたまま話しかけてきた。


「動物園で飼われているのじゃなくて、野生のイノシシよ。こう、毛むくじゃらのブタみたいなので、それよりもっと大きいの」


「イノシシは知っていますけど、実際に見たことはありません」


 そう正直に答えると、高砂はそうよねぇと返す。豊かな白髪頭を後ろに撫でつけた、老婆と呼べる年代の女。上品なチェーン付きの眼鏡を掛けて、口は小さくあごも細い。何となくカマキリの顔を思い起こさせる容貌ようぼうだった。

 車内は二人きりで、助手席には書類をまとめた青い表紙のリングファイルや、高砂の持ち物であろう茶色の皮バッグが置かれている。

 後部座席に座る茜の隣には旅行用の大きなトランクが二つあり、これは茜自身が持ち込んだものだった。


「イノシシが出るんですか? この山に」


「どの山にだって出るわよ。秋くらいが特に多いわね。森の中だとこう、黒い岩みたいに見えてね。鼻で地面をほじくりながら、結構早く動き回るのよ」


「危なくはないんですか? 人間に体当たりしてくるとか」


「そうよ。でも本当に危ないのは、牙よ。オスのイノシシには口の端から上に向かって大きな牙が生えているの」


「牙……」


「しかも顔の高さが人間の足やお腹の辺りだから、まともにぶつかったら大怪我じゃ済まないわよ」


 高砂は脅すような口調で語る。茜は太腿の内側をえぐり取られるような感覚を覚えて寒気がした。そっと再び窓の外に目を向けるが、れ日の射す木々の隙間に獣の姿は見えない。しかしその奥に広がる暗い森に何かが潜んでいたとしても、やはり見ることはできないだろう。


「高砂さんは、そんなイノシシと出会ったらどうするんですか?」


「逃げるのよ。でもいきなり走って逃げちゃ駄目。驚かせるとかえって追いかけて来ることもあるから。ちゃんと相手と向かい合って、目は合わせないで。あら失礼。あなたの縄張りにお邪魔しちゃいました。お互い気をつけましょうね。ごめんあそばせとか言いながら、ゆっくりと離れるの」


 高砂はおどけた口調で言って、ほほほと笑う。茜もつられて苦笑いするが、運転中の彼女からは見えなかっただろう。


ひきさんはイノシシだけじゃなくて、シカやタヌキやサルも見たことあるって言っていたわ。夜の内にお屋敷に忍び込んで庭に足跡やフンを残していくんですって。嫌ねぇ。私、サルは嫌いよ。意地汚いから」


「怖いですね……」


「あら、ごめんなさいね。怖がらせるつもりはなかったのよ。大丈夫、昼間はほとんど見ないし、夜もお屋敷の中にまでは入ってこないから。だけど、そうね。生ゴミとかを外へ出しておくのは良くないでしょうね。餌があると思われちゃうと、何度だって来るでしょうから」


「分かりました。気をつけます」


 メモを取ろうかと思ったが止めておいた。そういう細々とした注意点はまたあとで指導を受けるだろう。


 道は上り坂になったかと思うと下り坂になり、さらに山奥へと進んで行く。山間の小さな無人駅を下りてこの車に乗ってから、そろそろ二時間は経とうとしていた。


「お屋敷は、まだ先にあるんですか?」


「いいえ、もうすぐよ。このあとにまた山を上るの。酔っちゃったかしら?」


「平気です。高砂さんこそ運転大丈夫ですか?」


「ええ。私はもう何度も来ているから慣れっこなのよ。一本道だから地図もいらないし、対向車も来ないから楽よ。だけど往復に時間がかかるのと、すなぼこりで車が汚れるからなんするわ」


 車は白色のワゴン車で、側面には【訪問介護ひだまり】という会社名と、ハートをモチーフとしたロゴマークが青緑色で書かれている。元は三列シートのようだが二列目までしかなく、三列目は車椅子が乗り降りできるように改造された空間となっていた。


「だからヘルパーさんもお屋敷に住み込みで働いてもらうしかなくって……栗谷さんに来てもらって私たちも本当に助かっているのよ」


 高砂は大袈裟おおげさに褒めて溜息をつく。恐らくこちらの緊張をほぐそうとしてくれているのだろう。茜はそれを知っていても、ぎこちないあいわらいしか返せない。しばらく引き籠もりがちだったせいで、社交性までなまってしまったような気がした。


「……でも、本当に私で良かったんでしょうか」


「あら、どうして?」


「私、こういった介護のお仕事は初めてですから。住み込みとなると、その、上手くできるかどうか……」


「でも栗谷さんは看護師さんだったんでしょ?」


「ええ、まあ……」


「それなら何も心配いらないわよ。うちもそれであなたの採用を決めたんだから」

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