幻聴

@akira11111

幻聴

 なぜあなたたちはこの世界でまともでいられるのか? まともじゃないからまともでいられるのか? じゃあ本当の意味でまともな人間はどうなる? まともなのにまともじゃない人間として生きていかなくてはならないのか? 僕の足もとには死体が転がっているが僕はまともだ。まともじゃない人間を殺したからまともなのだ。害虫を殺したとして、あなたは罪の意識を感じるか? そういうことだ。

 死体の顔はひどく醜かった。死んでいるからじゃない。死ぬ前から醜かった。ずっと前から思っていることだが、なぜ人を見た目で判断してはいけないのか? 服も、料理も、部屋も家電製品も靴も指輪も動物も野菜まですべて見た目で判断するというのに、なぜ人を見た目で判断してはいけないのか? 論理的に明らかに矛盾しているんじゃないか? 大半の人が見た目で判断されると困るから、人を見た目で判断してはいけないというルールが適用されているだけではないか? 犯罪者の顔をずらりと並べてみるといい。ほぼ全員、醜いはずだ。

 死体を川に捨て、夜が明けた頃に家に帰った。父も母もまだ起きておらず、時計は午前四時を指していた。頭が痺れる。自分が思う以上に体は疲れているようだ。ベッドに腰かけて牛乳を飲むと、まるで即席の睡眠薬であるかのように途端に睡魔に襲われ、体を横にしてそのまま眠りに就いた。


 起きて洗面所で顔を洗い居間に行くと母が食事をしていた。父はもう仕事に出かけたらしい。いつものことだ。

「ブロッコリー茹でたから食べてね」

 母がそう言い、僕は頷いて向かいの席に座る。僕はブロッコリーが嫌いだ。栄養のことを考えて母はブロッコリーを茹でてくれたのだろうが、僕の考えは異なる。嫌いなものは体が拒否しているので、食べるとむしろ毒だと僕は思う。しかし僕は黙ってブロッコリーを口に運ぶ。朝からそんなことで口論をしたくはないし、する意味がない。

「今日も忙しいの?」

「そうだね」

 母は財布から一万円札を取り出して僕に渡す。僕はそれを受け取るとポケットにしまい、無言で食事を続ける。

 母が嫌いなわけではない。もちろん父もだ。ただなにを話せばいいのか分からないのだ。両親に対してだけではなく誰にでもそうだ。言葉は物質のようなもので、体に溜まってくると普通は排出しなくてはならない。そうしないと苦しいからだ。だから人は話し相手を求めるわけだが、僕はそうではない。僕の言葉は気体のようなもので、溜まってきてもいつの間にか排出されているので苦しいということがない。だから話をしない。それだけのことだ。

 食事を終えて外に出ると目の前をサラリーマンが通った。不快そうな顔をして道に唾を吐いた。きっと寂しい人間なのだろう。

 犯罪者はたいてい男だ。男は醜く、醜いものはたいてい間違っている。美しくなる病など存在しないのと同じように。

 美しい言葉、美しいフォーム、美しい部屋、美しい言葉遣い、美しい数式。いずれも物事が本来あるべき正しい状態を表している。美しさと正しさは限りなくイコールに近い。もちろん例外もあるだろうが。

 そんなことを考えていると駅に着いた。改札を抜けホームに立つ。朝のホームは混み合っている。授業時間や始業時間をずらせば混雑は解消でき、快適に過ごせるというのに、誰もそうしようとはしない。みんなと一緒が好きなのだ。きっと安心するからだろう。サラリーマンたちの似通ったスーツ姿が学生服に見える。

 その男を見かけたとき、単に酔っているのだと思った。上下ジャージの二十代後半と思われる男が蛇行するようにふらついていた。しかし注意深く見てみると、どうやらその男は酔っているわけではないようだった。酔っている人間はあらゆる動きが緩慢になるが、その男は空いているベンチに素早く座ると頭を掻きむしり、勢いよく立ち上がると再び蛇行してベンチに座るという異常な行動を繰り返していた。僕は見るともなくその様子を眺めていた。それから数分後、電車の到着を告げるアナウンスが鳴り響いた。

 まもなく、二番線に電車が参ります。危ないですから黄色い線の内側までお下がりください。

 男は「はい!」と大声で叫ぶとベンチから立ち上がり、走り幅跳びの要領で助走をつけると線路に向かってジャンプした。跳び込み自殺だ。しかし意気込みすぎたのか、線路を大幅に跳び越えてしまった。着地した男はひどく狼狽し、顔一杯に皺を寄せた。電車がやってくる。足を痛めたのか、男は全身の力を振り絞り、必死の形相で線路に向かって這う。そして見事、電車が通り過ぎる寸前に男は頭部を線路へと差し出すことに成功し、その上を電車は華麗に通り過ぎた。ホームに人々の悲鳴が響き渡った。僕は心の中で静かに拍手を送った。自殺したい人間が自殺に成功したのだ。希望が叶ったわけだから、喜ばしいことではないか。

 駅を出て手を挙げるとすぐにタクシーが停まった。眼鏡をかけた肌の茶色い運転手。日に焼けているというより不健康という印象を受ける。高校名を告げると発車した。

「道、混んでますね」

「見りゃ分かるでしょう」

「いつもこんな感じなんですか?」

「よく分からないですね」

 あまり愛想はよくないようだ。それとも機嫌が悪いのか。

「ところで、なんで高校生がタクシーに?」

「さっき人身事故が起きたので、仕方なく」

「あらそう。仕方がなくても、私が若い頃はタクシーなんか乗れなかったけどねえ」

「タクシー、あったんですか?」

「当たり前でしょう。私が貧乏だったんですよ」

「そうですか。お金を持っていてよかったです」

「金だけはあるんだねえ。両親に感謝だねえ」

 根本的に意地悪な性格をしているのだろう。興味が湧いてきた。

「この時間の道っていつもこんな感じなんですか?」

「分からないですって」

「でもいつもこの時間に乗車してらっしゃるんでしょう?」

 無言。

「いつもこんな感じなんですか?」

「うるさいですよ」

「ごめんなさい。返事がなかったもので」

「黙って乗ってりゃいいんですよ」

「そうですか」

「そうですよ」

「なんでですか?」

「子どもと喋りたくないんです」

「なんでですか?」

「イライラするんです」

「僕、なにか悪いこと言いましたか?」

 無言。

「教えてください。僕、なにか悪いこと言いましたか?」

「うるせえなあ」

「うるさいですか?」

「うるさいです」

「どうしてですか?」

 チェッ! と運転手は大きく舌打ちをした。面白い。少し実験をしてみようと思う。

「ところで一万円札でお会計ってできますか?」

「無理ですねえ」

「一万円札しかないんですけど」

「だから無理ですねえ」

「じゃあどうすればいいですか?」

「それはあなたが考えてください」

「なんですかそれ。その態度はおかしいと思いますけど」

「あんたクレーマーか」

「常識的なことを言っているだけだと思いますけど」

「常識的だったら細かいの用意しとけよ」

「仕方がないじゃないですか。母が一万円札でくれたんですから」

「親依存の乳飲み子野郎が」

「なんですか?」

「乳しゃぶりのミルク小僧が」

「だからなんですか?」

 タクシーはスピードを落とし路肩に停まった。

「どうしたんですか?」

「金いらねえから降りてくれ」

「そうはいかないですよ。最後まで走ってください」

「嫌だ」

「お釣りはいらないですから」

「馬鹿にすんなよ。金のためにこの仕事をやってるわけじゃねえんだ」

「じゃあなんのために?」

「好きなんだ、この仕事が。だから好きじゃない客を乗せたくないんだ」

「僕のこと好きじゃないですか?」

「好きじゃないです」

「嫌いですか?」

「嫌いです」

「そうですか、分かりました。じゃあここまでの乗車賃は?」

「いらないです」

「そうはいかないですよ。無賃乗車になっちゃいます」

「いいですよ。警察に通報したりしないから」

「自分の気持ちの問題です。じゃあこうしましょう。道に一万円札を置いていきますから、気が向いたら取りにきてください」

 僕はタクシーを降りると道の端に一万円札を置き、風で飛ばないよう、その上に消しゴムを乗せた。

「いいですか? ここに置いておきますからね」

 運転手は蔑んだ目で窓越しに僕を見ると、なにも言わずにタクシーを発車させた。それを見届けてから一万円札を手に取り、すぐ近くのコンビニで昼食を買った。お釣りを受け取り、店の外に出て千円札の上に消しゴムを乗せ、再びコンビニに入って外を見渡せるイートインスペースで待っていると、三十分ほどしてタクシーが停まった。降りてきたのは先程の運転手だった。辺りをきょろきょろと見回すと小走りで駆け寄り、素早く札を手に取ると懐に入れた。しかし違和感を覚えたのか、懐から札を取り出すとまじまじと見つめた。それが千円札だと理解するまでに十秒かかった。運転手は顔をしかめ、千円札を雑にズボンのポケットに突っ込むと運転席に乗り込みタクシーを発車させた。僕は消しゴムを回収し、歩いて高校へと向かった。


 教室に入ると三時間目の授業の途中だった。黒板には「ホロコースト」という文字がでかでかと書かれ、赤いチョークでぐるりと囲まれていた。

「おい平野、お前なんでこんなに遅れたんだ?」

「人身事故がありまして」

「それは知っている。でも他の生徒はとっくに着いているじゃないか。お前、なにかしたのか?」

「どういうことですか?」

「人身事故に関わっていたとか」

「だったら来れてないと思いますけど」

「まあいいや。いまみんなに訊いていたんだが、お前、ホロコーストについてどう思う?」

「先生はどう思うんですか?」

「お前に訊いてるんだよ」

「まずは先生の意見を聞きたいですね」

「俺は当然、許されないことだと思ってるよ」

「それは個人の意見ですか? それとも社会科の教師として?」

「どちらもだよ。当たり前のことだ」

「当たり前のことなら僕に訊かなくてもいいじゃないですか」

「お前は常識の通用しない人間だからな。違う意見を持っているはずだ」

「そうですか。僕の意見ですが、ホロコーストは対象を間違えただけだと思います」

「対象?」

「ユダヤ人という枠でひとくくりにしたことが問題だと思います」

「大量虐殺は容認していると?」

「先生の家には庭はありますか?」

「なんだよ突然」

「確か一軒家にお住まいですよね。庭はありますか?」

「まあ、あるけど」

「庭に害虫が大量発生したらどうしますか?」

「そりゃ駆除するだろ」

「それと同じですよ」

「虫と人間は違うだろ」

「命という意味では同じだと思います」

「お前はユダヤ人を害虫だと言っているのか?」

「死刑についてはどう思いますか? 国家が許可した殺人です」

「それだけのことをしたんだから仕方がないだろ」

「つまり、明らかに害があると判明すれば、人間であろうと殺してもいいわけですよね?」

「お前、なにを言ってるんだ?」

「だってそういうことじゃないですか」

「意味の分からないこと言いやがって。もういいよありがとう。授業に戻るぞ」

「ユダヤ人にも害がある人間はいるでしょうが、それは一部の話で、どの人種に対しても言えることです。明らかに害のある人間を集めて大量虐殺するぶんには問題がないと僕は思います。庭の害虫を大量に駆除するのと同じように」

「お前、気持ち悪いな」


 昼休み、屋上で冷やし中華を食べていると扉が開いた。同じクラスの中沢だった。まだ十六歳なのに体が成熟していて、胸が大きく脚が長かった。中沢は脇目もふらず僕のほうにやってきて隣に座った。

「冷やし中華?」

「そう」

「おいしい?」

「まずくはない」

 中沢はバッグから細長いパンを取り出して食べ始めた。僕は無言で冷やし中華を食べ続けた。

「父親、殺してほしいんだけど」 パンの入った口で、不明瞭な発音で中沢は言った。

「父親? きみの?」

「そう、私の」

「血の繋がった?」

「たぶん繋がっていると思う。調べてないけど」

 中沢はパンを咀嚼しながら喋り始めた。幼少期から。強要。現在に到るまで。

「なるほど、確かに殺すに値する人間だと思う」

「殺せるんでしょう?」

「なんでそう思うの?」

「さっきのあの感じから」

「人を殺せるとは言ってないと思うけど」

「殺せないの?」

「殺せると思う」と僕は言った。「ところで、気持ちよかったの?」

「なにが?」

「父親とのセックス」

「気持ちいいわけないじゃない。だってレイプだもん」

「そりゃそうか」

「そりゃそうよ」

 僕たちは食事を続けた。中沢は喋らず、僕は父親を殺す方法を考えていた。

「ところで、なにかしてほしいことある?」

 パンを食べ終え、パックの牛乳を飲みながら中沢は言った。

「べつにないけど、なんで?」

「いや、なにかしたほうがいいのかと思って。ギブアンドテイクというか」

 とくにしてほしいことはなかったが、それで中沢の気が収まるならそれでもいいと思った。

「じゃあ一人でやるとこ見せて」

「なにを?」

「オナニー」

「なんで?」

「人が初めてイク姿を見てみたいと思って」

「オナニーくらいやったことあるわよ」

「イッたことあるんだ」

「それはないけど」

「じゃあいいじゃん。やってみて」

 中沢はスカートの中に手を忍ばせ、おずおずとした動作で擦り始めた。

「気持ちいい?」

「なにも感じない」

「もっと指を繊細に使わないと。犬の頭を撫でてるんじゃないんだから」

「あんまりやったことなくて」

「パンツは脱げない?」

「脱げない」

「じゃあもっと強めに擦ってみて。クリトリスを重点的に攻めるようにして」

 しばらく中沢は擦り続けていたが、どうしても達することはできず、終わりを告げるかのようにチャイムが鳴った。

「イケなかったね」

「そうみたい。取引は不成立?」

「問題ない。殺すよ」

「なんで?」

「そのほうがいいと思うから」

 放課後に校門前で待ち合わせる旨を約束し、僕たちは屋上を出た。


 五時間目の授業には出ずに家に戻った。母はいなかった。自室に入り、机の抽斗からスタンガンを取り出す。なにかに役立つのではないかと思い、以前ネットで購入したものだ。コンビニ受取が指定できたため、家族には知られていない。便利な時代になったものだ。試しにボタンを押すと、ビリビリという音が響き渡って青い光が見えた。ロープも学生鞄に入れておく。

 家を出て電車に乗り、ちょうどホームルームの終わる時間に校門前に到着して中沢が出てくるのを待った。少しすると、校舎からぞろぞろと生徒たちが出てきた。その中に中沢もおり、僕を見て安堵の表情を浮かべたが、次の瞬間には顔を強張らせた。まるで得体の知れない生物を見つけたかのように。中沢は覚束ない足取りで僕の隣に並び、僕たちは歩き出した。


 父親の帰宅までに随分と時間の余裕があるということで、バーガーショップで時間を潰すことにした。僕は巨大なエビバーガーを頼み、中沢はミルクをたっぷりと入れたホットコーヒーを飲んだ。

「よくそんなの食べるね」

「知ってた? エビの尻尾とゴキブリの羽って同じ成分なんだよ」

 食事をしながら中沢の家庭環境について聞いた。父親に嫌気が差し、三年前に母親は若い男と駆け落ちしたそうだ。母親は音楽教室でピアノの講師をしており、相手はその生徒だったらしい。

「ショックだった?」

「もちろん。でも同じ立場だったら私も同じことをしたと思う」

「母親は知っていた?」

「たぶん。現場を見られたわけじゃないけど、同じ家に暮らしてたら分かるものでしょ」

 父親は名の通った会社で役員を務めているとのこと。有名私立大学を卒業し、在学時に作り上げたコネクションをもとに、順風満帆にキャリアを築き上げていった。

「いわゆるエリートなんだ」

「外ではね」

 僕は想定している父親の殺し方を小声で伝えた。中沢は小さく頷き、残っていたコーヒーを静かに飲み干した。

 店を出る前にトイレに立ったとき、一人でテーブル席に座っている小学生の男の子を見かけた。綺麗な顔立ちをしていたため、少し気になり、トイレから先客が出てくるまで暇潰しに観察することにした。コーヒーの入った紙コップを左手に持ち、色鉛筆で熱心になにやら紙に書き込んでいる。覗き込むと、それは飛行機だった。雲一つない空を気持ちよさそうに飛んでいる。彼はときおり手を止めると顔を上げ、じっと前を見つめた。集中して想像力を働かせているのだろう、眉間には深い皺が寄っていた。彼の目の前には空きの目立つカウンター席が広がるのみだが、おそらく彼が実際に見つめているのは巨大な飛行機なのだろう。彼が飛行機を作りたいのかパイロットになりたいのかは分からないが、いずれにせよその夢が叶えばいいと思った。どことなく自分と顔が似ていたため、思い入れが強くなってしまったのかもしれない。


 三十分ばかりバスに乗り、中沢の家に到着した。閑静な住宅街の中にある二階建ての一軒家で、モデルハウスのように綺麗な外観だった。中沢に先導されて中に入る。外観と同様、家の中も荒れた様子はなく、綺麗に整えられている。

「定期的にクリーニング業者に来てもらってるのよ。お金だけはあるから」

 家の中を一通り探索し終え、リビングのソファーに腰を下ろした。中沢は落ち着かないのか、意味もなく動き回っていた。

「座れば? 自分の家なんだし」

「動いてないとおかしくなりそうで」

「おかしくなる?」

「体の中になにかが溜まっていく感じ」

「感情は物質だからね」

「心の中で何度も落ち着くように唱えてるんだけど」

 僕はバッグからタブレットケースを取り出し、錠剤を出して飲み込んだ。

「なにそれ?」

「アスピリン」

「あっ、なんか映画で見たことある」

「ただの解熱剤なんだけど、プラシーボ効果なのか飲んだら落ち着くんだ。いる?」

「じゃあちょっともらおっかな」

 手に二錠出してやった。中沢はグラスに水を注ぎ、口に錠剤を流し込んだ。

「どう、落ち着いた?」

「そんなにすぐ効くものなの?」

「たぶん効かないと思う」

「やっぱり。さっきと同じだもん」

「座って」 僕は立ち上がり、ソファーを指差した。

「なんで?」

「いいから」

 中沢は言われた通りソファーに座った。

「目を閉じて」

 背後に回り、中沢の肩を揉んでやった。「気持ちいい」という声が聞こえる。五分ほど揉んでから首に移った。綺麗なうなじに手を当てると、ひやりとしたのか、中沢は全身をぶるっと震わせた。僕は両手で優しく首を揉みほぐし、ときおり手に力を入れて軽く首を締めた。中沢の口から呻き声が漏れ、手の力を緩めると、息を取り返すかのように大きく深呼吸した。それを何度か繰り返すと、体温が上昇したのか、皮膚の表面にわずかな湿り気が生じた。僕はその湿り気を採集するかのように皮膚を撫で、徐々にその範囲を広げていった。肩、二の腕と撫でていき、手のひらを握ると握り返してきたので、首元から服の中に手を忍ばせ、ブラを持ち上げて乳首に触れた。中沢は小さく悲鳴を上げたが、「痛い?」と訊くと首を振ったので、輪を描くように乳輪を撫で、爪の先で乳首を刺激し続けた。服から手を抜くと今度は太ももに触れ、鼠径部を撫でた。それからパンツ越しに陰部に手を触れた。中沢は身をよじり、小さな喘ぎ声をあげた。パンツの脇から指先を潜り込ませると、粘ついた液体に辿りついた。人差し指を挿れてやると中沢は全身を硬直させ、それからより指が奥へと届くように自ら体を前傾させた。

 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。中沢は両目を見開き、不安げに僕を見つめた。

「大丈夫。きみはいつも通り行動すればいい」

 僕はバッグを持つとリビングのドアを開け、音を立てないよう二階に上がった。懐にスタンガンを忍ばせ、耳をそばだてる。

 ドアを解錠する音が響き、「ただいま」という男の野太い声が聞こえた。「おかえりなさい」と中沢は弱々しく応じる。

「メシは?」

「ごめんなさい、まだ用意できてなくて」

「いいよ。軽く食ってきたから。味噌汁だけ用意してくれないか。大根入れたやつ」

「分かりました」

 普段、父親は帰宅すると二階には上がらず、しばらくリビングで寛ぐと中沢から聞いていた。そのため安心しきっていたのだが、唐突に階段をのぼってくる音が聞こえ、僕は咄嗟に寝室のダブルベッドの近くにある両開きのクローゼットの中に身を隠した。すぐ近くで床の軋む音が聞こえる。隙間から覗くと、男が丁寧にベッドメイキングをしているのが見えた。声から想像した通りの、でっぷりと太った低身長の醜い男だった。この男と中沢が同じ遺伝子を共有しているとはどうしても考えられなかった。

 父親は大量のバスタオルを使ってベッド全体を覆っていた。バスタオルの重なり方が美学に反するのか、首を傾げて何度も微調整を繰り返していたが、ようやく納得したのか、「よし」と小さく呟くと寝室から出ていった。僕もゆっくりとクローゼットから出る。

 父親がトイレに入ったのを見計らい、ゆっくりと階段を下りた。リビングのドアを開け、台所で大根を切っている中沢の背中に触れると、痙攣したかのように体を震わせ、持っていた包丁の刃先を僕に向けた。

「僕を殺す?」

 中沢はブルブルと首を横に振った。

「じゃあお父さんを殺そうか?」

 中沢は首を動かさず、僕を直視するのみだった。

 僕は懐からスタンガンを取り出すとトイレに近づいた。中沢の父親が本当に問題のある人物なのか、僕には分からない。ベッドにバスタオルを敷く姿は見たが、必ずしも性行為とは直結しない。ひどい汗っかきで、睡眠時にベッドを汚さないよう、いつもあのようにバスタオルを敷くのかもしれない。もしかすると中沢には虚言癖があり、口から出まかせを言っていただけなのかもしれない。もしそうなら、これから僕が行うことはどのような見地から見ても間違っているだろう。しかし、それでも僕はやめるつもりはなかった。醜いものが一つ減れば、世界はそのぶん美しくなる。それは確かだからだ。

 トイレの前でしばらく待っていると、水の流れる音がしてドアが開き、父親と目が合った。状況が理解できないのか、無表情で立ったままでいる。

「大ですか小ですか」

「えっ」

「出たのは大ですか小ですか」

「大です」

「ちゃんと尻を拭きましたか」

「拭きました」

「それはよかった」

 スタンガンのスイッチを入れて父親の胸に突き立てると、前衛的なダンスのように手足をばたつかせ、すぐに気を失った。その間、中沢は台所でずっと包丁を握りしめていた。


 両手・両足をそれぞれロープで幾重にも巻き、身動きがとれないようにきつく縛った。意識が戻れば、皮膚が締めつけられ、激しい痛みを感じることだろう。後ろ手に縛っていることもあり、肩の関節も悲鳴を上げるはずだ。だがそんなことはどうでもいい。あらかじめ捨てる予定の紙コップがどれだけ汚れようが、どれだけひしゃげようが誰も気に留めないだろう。それと同じだ。口にはテープを貼りつけた。ガムテープよりも粘着力の強い布テープを使用した。

 テープを貼りつける前に、中沢に父親から謝罪の言葉を聞きたいかと訊ねた。中沢は首を振った。

 何度か頬を叩いたが目を覚まさないので、諦めて気分転換にインスタントコーヒーを作って飲むことにした。中沢にもいるかと訊ねたが、無言で首を振った。代わりに錠剤を求めたので分けてやった。

 ミルクと砂糖をたっぷりと入れたコーヒーを飲んでいると、父親の喉からくぐもった音が聞こえた。どうやら意識が戻ったようだ。父親に近づき、まだ熱の残っているコーヒーカップを頬にくっつけてやると、温かさが心地よかったのか、快眠後の目覚めのように穏やかに目を開いた。カップを頬から離し、残っていたコーヒーを飲み干した。

「目を覚ましましたか」

 父親の目はとろんとしており、状況を理解できていないようだ。しかし焦ることはない。時間はたっぷりある。

「僕は平野といいます。中沢さんのクラスメートです。とはいえ、今日まで話をしたことは一度もありませんでしたが」

 父親は寝転がったまま椅子に座る中沢を見上げた。中沢はこくりと頷いた。

「なぜ自分が縛られているのか理解できますか?」

 父親は首を振った。

「あなたが中沢をレイプしていると聞きました。だから僕はここにいます」

 父親はもごもごと口を動かして言葉を発しようとした。

「口のテープが邪魔だと思いますが、とるわけにはいきません。それでもなにか伝えたいですか?」

 父親は頷いた。僕はスタンガンを持って近づいた。

「後ろ手だと文字が打てないでしょうから、前に持ってきて再び縛り直します。一旦ロープを外すことになりますが抵抗しないでください」

 僕は中沢にロープを縛り直すように言い、スタンガンのスイッチを入れた。中沢は父親のロープをほどき、手を前に持ってきて再び縛った。女性の力だと限界があるのか、縛り方が若干甘かったので、スタンガンを中沢に渡して仕上げは僕が行った。中沢からスタンガンを受け取り、代わりにメモアプリを起動したスマホを渡した。

「中沢さん、手が疲れると思いますが、お父さんが文字を打ちやすいようにスマホを持っていてください」

「はい」と中沢は緊張を帯びた声で返事した。体に力が入っているのか、不安定な姿勢だからか、小刻みにスマホが揺れている。

「まず目的をはっきりさせておければと思います。回りくどい話は時間の無駄ですから。お父さん、僕はあなたを殺そうと思っています」

 父親に動揺した気配はなく、うんと一つ頷いたのみだった。

「殺すということはそれなりの罪を犯したということですが、その自覚はありますか?」

 父親は再び頷いた。

「話の理解が早くて助かります。単刀直入にお訊ねしますが、なぜ長きに渡って中沢さんを犯し続けたのですか?」

 父親は文字を打った。

(もう助からないんだろう?)

「それは分かりません。犯すに到った正当な理由があれば、殺すことはないと思います。どのような観点から見ても、正当な理由など望めないでしょうが」

(シンプルに申し上げると、性欲が溜まっていた)

「もちろんそれもあるでしょう。しかしあなたは奥さんがいたときから中沢さんを犯していたと聞きました。性欲が溜まっていたのなら、奥さんと行為をすればよかったでしょう? それにお金は存分にお持ちでしょうから、どうにでも処理できたはずです。娘さんに手をかけなくても、金銭と引き換えに体を差し出す女性など、いくらでも見つけられたはずですし。自分の娘であるという要素が重要でしたか?」

(そうかもしれない)

「娘さんに怨みがあった」

(それはない)

「では奥さんに怨みがあった」

(それは否定できない)

「なぜ?」

(出ていく以前から何度も浮気を繰り返していた)

「では娘さんではなく奥さんを犯せばよかったんじゃないですか?」

(確かにそうだができなかった)

「なぜ?」

(妻には勃たなかった)

「それはなぜ?」

(娘が生まれたあとから勃たなくなった。妻から母親に変化したからかもしれない。妻は私をなじり、以前から性器が小さくて貧相だと思っていたと言われた。それから妻は浮気を始めた)

「しかし娘さんには勃った」

(最初は実験だった。娘が生まれてから私はずっと自慰行為によって性欲を処理していた。風俗にも行ったが緊張のせいか勃たなかった。娘が小学三年生になったとき、私は唐突に、もしかすると娘で勃つかもしれないと思った。妻のいないとき、私は娘を見ながら自分の股間を触った。勃った。そこでやめるつもりだったが、やめられなかった)

「なぜやめられなかった?」

(分からない。悪いことだとは分かっていたが、体の動きを止められなかった。終わったとき、罪悪感とともに達成感のようなものがあった。後者が勝っていた。だから続けた。私の目に映っていたのは娘だったが、実際に見ていたのは妻だったのだと思う)

「娘さんを犯すことでその母親である奥さんを間接的に犯し、怨みを晴らしていた」

(そうかもしれない)

「くだらない。殺そう」

 僕は父親の首に手をかけたが、それを中沢が止めた。

「なぜ止める?」

「もう十分だから。ありがとう」

「あの理由で納得した?」

「そうじゃないけど」

「相変わらずこの男は殺すに価する人間であり、僕は殺すことができる。それで十分じゃないか」

「でも平野くんが犯罪者になっちゃう」

「殺してほしいと頼んできたのは中沢さんだと思うんだけど」

「本当にこうなるとは思ってなかったから」

「それに僕はすでに犯罪者だ。これが初めてじゃない」

「殺人が?」

「これまでに何人も殺した。だからきみの理屈は当てはまらない。それでも殺すのをやめてほしい?」

 中沢は頷いた。

「それはなぜ?」

 中沢は首を振った。

「きみは安定が壊れることが怖いんだよ。DVと一緒だ。どれだけ最低な関係でも、その状態が長く続けば安定し、変化を恐れるようになる。変化することで今よりも悪くなると考えるんだ。だがそれは間違っている。最低な状態から変化するんだから、好転しかありえないんだよ。分かるね?」

 中沢は頷いた。

「分かった。僕が殺してはいけない。中沢、自分で殺せ。そうしないと呪縛から逃れられない」

「ごめんなさい。無理」

「一生このままでいいのか。一生快楽を感じなくていいのか。今どうするかで今後数十年が変わるんだぞ。現実では映画のように大事な場面でBGMがかかったり強調表現が使われたりしないが、おそらく今がきみの人生にとって最も重要な場面の一つだ。よく考えたほうがいい」

 僕は台所にあった包丁を渡したが中沢は受け取らず、ずるずると鼻をすすって嗚咽するのみだった。

「僕が殺すのは簡単だけど、そうすると中沢さんは一生、この男を殺すことはできない。自分で決着をつけることができないんだ。それでもいいのか?」

 中沢は幼児のように何度も首を振るのみだった。人殺しをする自分に耐えられないのだろう。責任の所在をどこに置くかが重要だ。僕は台所に包丁を戻し、腕を組んでなにかいい方法はないか考えた。

「じゃあこうしよう。これからロールプレイを始める」

「ロールプレイ?」

「役割と設定を決めて演技をすることだ。中沢さんは今から一人暮らしを始めたばかりの女子大生だ」

「女子大生?」

「そう。女子大生が一人で一軒家に住むのは無理があるが、この際それは考えないでおこう。とにかく中沢さんはこの家に一人で暮らしていて、ある日、新聞の勧誘員が来る。僕だ。一ヶ月だけでいいから試しに購読してください。完全無料でも結構です。なんなら、粉洗剤や野球のチケットもつけますので。どうか、お願いします。しかし中沢さんは契約したくない。ニュースはネットやテレビで見れば済むし、新聞はかさばる。洗剤は好きな香りの液体のものを使いたいし、野球にはそもそも興味はない。それに無料とはいえ一度でも購読してしまえば今後も勧誘員はやって来るだろう。得体の知れない男性とはなるべく接点を持ちたくない。だからどうしても断る必要があるわけだ。ここまでは分かる?」

「なんとなく」

「一方、勧誘員はどうしても契約が取りたい。新聞の購読数は年々減っていて、厳しいノルマが課せられている。だからどれだけ中沢さんが断っても、勧誘員は一歩も引かない。中沢さんがドアを閉めようとしても、隙間に足を挟んで閉めさせないようにする。結果、押し問答が起き、いつまで経っても終わることがない。という演技をやってみようと思う」

「それで一体どうなるの?」

「それについては考えなくていい。とにかく中沢さんは一人暮らしの女子大生で、どうしても新聞の勧誘を断りたいんだ。そのことだけを考えていればいい。演技に集中しさえすれば、すべて上手くいく。僕を信じてほしい」

 中沢はまだ泣き続けていたが、手を口に当てて必死に泣き声を押し殺し、「分かった。やってみる」と呟いた。

 僕はリビングを出、中沢はリビングに留まった。便宜的な内と外だ。一旦リビングのドアを閉め、僕は「ピンポーン」と口で言った。「はい」という声が聞こえ、中沢は内開きのドアをわずかに開ける。

「あの、どなたでしょう?」

「はじめまして。夜分遅く申し訳ありません。私はデイリー新聞からやって参りました平野と申します」

「平野さん? ですね。どういったご用件でしょう?」

「もしかして女子大生さんですか?」

「そうですけど」

「引っ越してきたばかり?」

「そうです」

「新聞とかって興味ありますか?」

「あの、もしかして勧誘の方ですか?」

「勧誘といいますか、まあそんな感じですかね」

「ごめんなさい、お断りします」

「もう他の新聞とられてます?」

「いえ、新聞には興味なくて。ニュースはネットやテレビで観るので」

「最近そういう若い方多いんですよね。でもそれだと自分の興味のあるニュースしか観なくなっちゃいますよ? それに新聞を購読すればお金をかけたぶんの元を取ろうと自然になりますから、ニュースにもより集中できると思いますし」

「その論理はよく分かりませんし、とにかくお断りします」

 中沢はドアを閉めようとした。僕は慌ててドアに手をかけた。

「ちょっと待ってください。もちろん最初から購読料を払って頂こうとは思っておりません。まずは試しに、一ヶ月無料で購読して頂ければと考えております」

「無料?」

「完全無料です。一円も払って頂くことはありません」

「でも新聞って結構かさばるじゃないですか。わざわざ紐で縛ってごみに出すのも億劫ですし」

「じゃあこうしましょう。無料に加え、さらに洗剤をお付けします」

「洗剤の種類は選べるんですか?」

「いえ、弊社規定のものとなっております」

「液体?」

「粉です」

「粉洗剤、嫌いなんです。上手く溶けきらないことがありますし、気がつくと洗濯機が粉まみれになってるんですよね。母がよく愚痴をこぼしていたのを覚えています」

「じゃあスポーツはお好きですか?」

「まあ、人並みに」

「スポーツのチケットも無料でお付けします」

「サッカー?」

「野球です」

「ルールがよく分からないですし、興味がないです」

「なるほど。そうですか」

「はい。ドアから手を離してください。危ないですよ」

 そう言って中沢はドアを閉めようとしたが、閉まる寸前に僕は空いている隙間へと足を伸ばした。僕の足が邪魔になり、ドアが閉まらない。

「ちょっと! なにするんですか!」

「本当にどうかお願いします。今日契約を取ってこないとクビになるんです」

「知りませんよそんなこと!」

「どうかお願いします。お願いします」

 それでも中沢はドアを閉めようとした。足がドアに挟まれて圧迫され、激しい痛みを覚えた。

「はいカット」 そう言って僕はパチンを手を叩いた。中沢は唐突に夢から覚めたかのようにまばたきを繰り返した。

「今のところはいい感じかな。でもここからが大変だ。今まではさっき僕が言った情報を小出しにして取り繕うことができたけど、ここからは完全なアドリブだ。自分の中から出てくるものだけでやっていかなくちゃいけない。分かるね?」

 中沢は頷いた。

「とにかくこの男に一刻も早く帰ってほしい。拒否しているにもかかわらず足を押し込んでくるなんて完全な異常者だ。いわば暴漢と一緒だ。やんわりと拒否しているだけでは押しきられてしまうぞ。どうしても帰ってほしい、押し返したいという強い気持ちを持って、全力でドアを閉めることが必要だ。相手の足が傷つくことなど気にしなくていい。暴漢に襲われているのだから正当防衛だ。きみに罪はない。分かるね?」

 中沢は頷いた。

「僕が合図するまで目を閉じろ。そして感情を作り込め。いいね?」

 中沢は頷き、目を閉じた。僕は静かにドアを開け、中沢の横を通って地面に転がっている父親の体をつかんだ。そしてゆっくりとドアのほうへと引きずった。途中、父親が抵抗して頭が中沢の足に当たったが、中沢は一瞬右目を開けただけですぐに閉じた。父親の顔を最適な場所にセットし、リビングを出て手を叩いた。中沢はゆっくりと目を開けた。

「感情は作れたか?」

 中沢は頷いた。

「いいか、僕を憎悪しろ。僕だけを直視して必死にドアを閉め続けろ。いいね?」

 中沢は頷いた。

「それでは始めるよ。用意、スタート!」

 合図と同時に中沢は素早くドアを閉めた。僕の足の代わりに父親の顔が挟まった。鼻が歪み、苦悶の表情を浮かべた。それを見届けてから僕は言葉を発した。

「契約取らないとクビになるんです。お願いします。お願いします」

「足をどけてください! 警察に通報しますよ!」

 中沢はぎゅうぎゅうとドアを押し続ける。しかし閉まらない。

「お願いします! お願いします!」

「駄目です! 駄目です!」

 言葉を発するたびに中沢の指に力がこもる。

「お願いします!」

「駄目です!」

「お願いします!」

「駄目です!」

「お願いします!」

「駄目です!」

「お願いします!」

「駄目です!」

「お願いします!」

「駄目です!」

「お願いします!」

「駄目です!」

 足に冷たさを感じた。アンモニアのにおいがぶわっと立ち昇った。

「お願いします!」

「駄目です!」

「お願いします!」

「駄目です!」

「お願いします!」

「駄目です!」

「お願いします!」

「駄目です!」

「お願いします!」

「駄目です!」

「お願いします!」

「駄目です!」

 下を見るとある程度ガシャガシャになっていた。そろそろいいだろうと僕は思った。

「よし、そろそろ」

「駄目です」

「そろそろいいかも」

「駄目です!」

「もうだいぶいってる」

「駄目です!」

「よし分かったお願いします!」

「駄目です!」

「お願いします!」

「駄目です!」

「お願いします!」

「駄目です!」

「お願いします!」

「駄目です!」

「お願いします!」

「駄目です!」

 どこからかギシギシという音が聞こえてきた。その音はドアを閉めようとするたびに大きくなった。

「お願いします!」

「駄目です!」

 ギシギシ。

「お願いします!」

「駄目です!」

 ギシギシギシ。

「お願いします!」

「駄目です!」

 ギシギシギシギシ。

「お願いします!」

「駄目です!」

 ギシギシギシギシギシ。

「お願いします!」

「駄目です!」

 ギシギシギシギシギシギシギシ。

「お願いします!」

「駄目です!」

 ギシギシギシギシギシギシギシギシギシバタン!

 唐突に重みを感じ、中沢が倒れ込んできたのかと思ったが違った。蝶番の壊れたドアが僕にのしかかってきたのだった。人間の体重ほどのドアに押され、背中から床へと倒れ込んだが、倒れ方がよかったのか幸い怪我も痛みもなかった。僕はドアを抱きかかえながら中沢を見た。床に座り込み、放心状態なのか焦点の合わない目で虚空を見つめていた。僕は中沢に言った。

「死んだね」

 玉の汗の浮かんだ上気した顔で、中沢は「うん」と頷いた。スポーツを終えたあとのように気持ちよさそうな顔だった。


 父親は出張が多かったらしく、家の中にいくつかスーツケースを見つけた。その中から最も大きなものを選び、その中に父親を押し込んだ。太ってはいたが身長が低かったのが功を奏し、手足を折りたたむと意外にもスムーズに収まった。失禁をしていたため、ベッドに敷かれていたバスタオルを持ってきて床を拭き、ついでに落ちていた目を拾ってまとめてスーツケースの中に入れてチャックを閉めた。消臭スプレーを十回ほど噴射するとにおいもなくなり、元のモデルルームのような部屋に戻った。

 スーツケースを引きずり家を出る。靴を履いて玄関のドアを開けようとしたとき、中沢が「今日はありがとう」と言った。僕は「どういたしまして」と返した。

「また会える?」

「もちろん。また明日学校で」

 互いを労うように抱き合い、ドアを閉めた。そのまま川まで行ってスーツケースを捨てた。すんなりと川底へと沈んでいった。帰宅する途中に空腹を覚え、コンビニに寄っておでんを買った。店員の中年男性がやけに学校の校長に似ており、笑いそうになった。もしかすると双子の兄弟なのかもしれない。歩きながら具を食べ、汁を飲み終えた頃に家に着いた。バッグから鍵を取り出して解錠したとき学校のチャイムが鳴った。それを聞き終えてから僕は玄関のドアを開けた。




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幻聴 @akira11111

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