Dream mage:25「心配ない。兆しはある」

 ギネスに口をつけることなくオボロは、シルクハットと仮面を外すとカウンターに置いた。瞬時に容姿が変わる。

「久しいな。カスミ」

 赤い髪、赤い瞳。

 五、六年前に会ったときとなんらかわらない高雅な美顔。

 まちがいない、わたしの母である夢使いミツルだ。わたしを救うためにオボロが原初の月を一刀両断した際にもちいたのは、まぎれもなく夢使いがもつ〈智慧の利剣〉だった。

 彼女をとりまくように、赤い霞のごとく夢魔たちが漂いはじめていく。

 おかげで酔いが一気に覚めてしまった。


「まさか、オボロが夢使いだったなんて……悪趣味」

「ちがう。彼の姿を借りただけ」

 ならば本物のオボロはどこにいるかとたずねると、「いまごろ、あのひとはミツキといっしょにギネスを飲みながら子守をしているはず」と教えてくれた。

 ミツキはともかく、あのオボロが子守とは……。

 想像するだけで、飲みかけたレッドブレストを吹き出してしまいそうになる。

「いつものオボロよりも親切だったから、ずっと変だとおもってた」

 と、つぶやいて、わたしは彼女をみた。

「なぜ、オボロになりすまして競売会場に現れたのですか?」

「決まっている。愛娘の夢泥棒をヒルにさせないため。夢泥棒は夢追い人から夢を盗むために存在しているのであって、ヒルにされるためではない」


 信念に基づく行動をしている、という口調だった。

 なにより「愛娘」ということばが聞けて、わたしは胸のあたりがほわわわんと暖かくなるのをおぼえた。どうせなら、大きくなったねといいながら抱きしめてくれてもいいのだけど。

 夢使いは、まじめな道化師。外道に走るものをあるべき道に正すのが役割――とおもい出し、わたしは視線をグラスに落とす。

「助けていただいて感謝します。みんなから記憶を消したのも、あなたですね。ですが、ヒルは夢見人とティル・ナ・ノーグの世界を守るためには必要なのではないですか?」

 グラスの水面にぼんやり、わたしの顔が写っていた。かなしそうなうれしいような複雑な表情をしている。

 そんなわたしに、「誰が必要と決めたのか」と夢使いは問いかける。


「誰って……自治政府の連中、それとも夢魔導師か……」

「カスミ、ナルキッソスの話を知っていますか」

 わたしはうなずいた。

 うつくしい若者ナルキッソスは、他人の愛にこたえることなく湖に映る自分に見とれ、自身に恋い焦がれて溺れ死に、水仙の花と化した逸話である。

「自己愛という意味のナルシズムはその話からきている。だが、その話には続きがある」

 夢使いは、ナルキッソスのその後をはなしてくれた。


 

 周囲のものたちは、ナルキッソスの死をかなしみ泣き続けた。

 ナルキッソスの姿を写していた湖も涙をこぼし、森に水が広がっていった。

 その様子を見て女神が湖に、あなたも彼の死をかなしんでいるのかとたずねた。「いいえ、わたしは湖にくる若者の瞳に写ったわたしの姿を見られなくて、泣いているのです。彼がうつくしかったかどうかは、みていなかったのでわかりません」と湖は応えたという。



「うつくしい話だろう」

 夢使いは微笑んだ。

「自分を愛することは悪くない。自分を愛することで、はじめて他人を愛することができるから。自己愛はわがままだが、誰しもわがままな面をもっている。自分の命と自由は誰にも侵されてはならないのだから、わがままが問題ではない。問題なのは、自分を愛せないわがままだ」

 彼女はひと呼吸おいて、「ヒルはその願いをかなえてくれる。だが自己愛の未熟さゆえに、閉じた世界を作り出す。そんな世界ではだれも生きてはいけないのだ」言葉を滑らせギネスに手を伸ばす。

「自分と他人を愛することで、他人に愛され、自分にも愛される。成長できる夢の形でなければ夢追い人の世界もティル・ナ・ノーグも救われない。それができるのはヨルだけなのだ」


 夢使いの言葉が正しいのなら、なんのためにヒルが必要なのだろう。

「だったら、どうしてヒルを作ろうとするんですか」

 わたしの問いかけに夢使いは、しずかに笑う。

「つらくかなしい現実に立ち向かうための代償として、必要なのだ」

「代償?」

「忘れられない夢のかけらを火酒に溶かし、年月をあおるように飲めば心は〈いま〉にとどまろうとする。夢コレクターたちは、果たせなかった思いである〈後悔〉を忘れられない存在。彼らの成長のためには、ヒルが必要だった。でもヒルという象徴は、自分が抱えもつ過去の亡霊ゴーストだと知らなければ成長はできない」


「むずかしいこと言われてもわかりません」

 わたしはグラスをあおった。あいにく夢使いや夢買い、夢魔導師とはちがって夢泥棒は賢くないですからね、と愚痴をこぼす。

「夢コレクターは忘れることではじめて成長し、年を取る。老いたことで、夢コレクターたちはスリーピングビューティーの呪縛から解き放たれたのだ。これからはもう、忘却結晶を集めることはないだろう」

「それって、まずいじゃないですか」わたしは大声をあげた。「夢を集めるものがいなくなったら、この世界はどうなるんですか!」


 夢の供給が止まれば、ティル・ナ・ノーグは消えてなくなる。ただでさえ夢見人は夢をみなくなってきているのだ。夢泥棒の働きだけでは支えきれないことぐらい、わたしにだって想像がつく。


「夢使いが夢を運んできてくれるのですか?」

「夢追い人がヨルを追い出してしまっている現状では、むずかしい」

 それなら、この世界はどうなってしまうのだろう。

 心配で、おちおちアイリッシュ・ウイスキーを飲んでいられなくなるじゃないか。

「心配ない。兆しはある」

 夢使いはそう言い残し、老舗パブを出ていった。

 急いで追いかけたが、彼女の姿はもうなかった。

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