見知らぬ指輪

新巻へもん

信条

「アントニア。もし、私がこの戦いで生き残ったら結婚しよう」

 現代人が聞いたら絶対にやめとけという巨大な死亡フラグを立てて、デキムスがアントニアの手を握った。町はずれの陋屋の陰で2人はしっかりと抱擁を交わす。熱い口づけを交わしながら、デキムスの指はアントニアの豊かな膨らみに添えられた。


 アントニアは、重い金の指輪のはめられたデキムスの指を握り押し返す。

「今はまだ駄目。あなたが武勲を立てて凱旋すれば父も私たちの仲を許してくれるわ」

 デキムスとアントニアは深く愛し合っていたが、それぞれの所属する家は政治的に対立していた。アントニアはデキムスの指に自らの指を絡ませる。


「分かった。待っていてくれ。必ずや敵を打ち払い、この町を守って見せる。それは君がこの町に居るからだ。例え魂魄になっても、奴らがこの町に指一本たりとも触れるのを許しはしない」

 デキムスはもう一度口づけを交わすと、脇に抱えていた兜をかぶって走って行った。


 北伊属州にあるクレモナの町は滅亡の危機に瀕している。執政官の率いる軍団が、カルタゴの将軍に敗れ、本国で激しい戦闘中だった。切れ切れに伝わってくる知らせは連戦連敗。幸いにもカルタゴ軍の攻撃は免れたが、それに呼応するガリア人の激しい攻撃にさらされていた。


 今のところ城壁を頼りに守っている。ただ、急なことで食料が乏しくなっていた。幸いなことに小麦の収穫期を迎えていたが、刈り入れをするには、包囲する敵の主力を打ち破る必要があった。その為に最低限の守備要員を残して、2個大隊が出撃することになっている。デキムスはそれに従軍することになっていた。


 アントニアは自宅へと戻る。誰にも見とがめられずに忍び込もうとした時だった。

「アントニア。こんな時間にどこに行っていた?」

 見ればアントニアの父ガイウスが厳しい顔をしている。属州総督の要職にあるガイウスは、当然決死隊の激励に行っていると思っていたアントニアは不意を突かれた。


「ミネルヴァ様の神殿で戦勝の祈願を」

「こんな夜更けにか? もう我慢がならん」

 アントニアの父は家人に言いつけて、アントニアを一室に閉じ込める。それを見届けるとガイウスは出かけて行った。夜陰に紛れて決死隊は城門をすり抜けひそやかに町の外へ出撃をしていく。アントニアは一睡もできずに夜を過ごした。


 数日が過ぎ、クレモナの町に戦いの結果が知らされる。激戦の後になんとか決死隊はガリア軍を打ち破るのに成功したとのことだった。急ぎ小麦の刈り入れを行って町に戻って来るという。部屋を出ることを許されぬアントニアは首を長くして帰着を待った。


 そんなある日、アントニアは父の居室に呼び出される。そこにはガイウスの副官であるマルクスも姿を現していた。ガイウスは晴れやかな声で言う。

「マルクスの指揮で見事にガリア人を撃退することができた」

 ガイウスは以前からアントニアの夫としてマルクスが相応しいと考えていた節があった。


「こちらにも多少の損害はあったが、敵は四散した。当分はこの町も息がつけるだろう。これもマルクスの活躍があったればこそだ」

 殊勝に賞賛の声を聞いていたマルクスがわざとらしい沈痛な表情を浮かべる。

「麗しいアントニア。君にこのような話を聞かせるのは私も胸が痛い。しかし、私は私の務めを果たそう。デキムスは戦死したよ」


 アントニアは間髪を入れず叫ぶ。

「嘘よ。嘘」

「ああ。どうして私が君を偽りで悲しませることがあるだろうか。君が私を嘘吐きと決めつける言葉を聞くととても胸が苦しいよ」

 芝居がかった声でマルクスが両手を胸に当てる。


「そうだ。これを見たまえ」

 マルクスがテーブルの上にごとりと何かを置いた。キラリと光を反射する金の指輪だ。

「勇敢に戦って身に7か所も傷を受けて亡くなっていた戦士の指から回収したものだよ」


 あくまで沈痛な様子を崩さないマルクスの顔に激戦の疲労は浮かんでいない。マルクスは洗練された物腰の優雅な男。そして、アントニアはこの気障な男が大嫌いだった。デキムスの逞しい腕、抱きしめる力強さ、熱い血潮。その正反対の男がマルクスだった。


 アントニアはテーブルに近づき、震える手で指輪を摘み上げる。センプローニウス家の紋章を図案化した意匠が施された指輪にアントニアは見覚えがあった。

「まったく悲しいことだよ。あのような勇士を失ってしまうとは……」

 その声を聞き流し、アントニアは長く艶ややかな髪をひるがえすと部屋を出て行く。


 残されたガイウスは軽く詫びを入れる。

「娘がこのような態度を示したこと、父として詫びよう」

「いえ。動揺するのは無理もありません。しかし、時が経てば……」

「うむ。すぐに忘れるだろう。なに、ただの一時の気の迷いだ」


 アントニアは自室に戻ると棚から一振りの短刀を取り出し、鞘から刃を引き抜いた。吸い込まれそうなほどに研ぎ澄まされた表面に決意を浮かべたアントニアの顔が映し出されている。アントニアは自慢の髪の毛を左手にまとめて首筋を露出させる。そして、迷いもなく切れ味のいい短刀を横に引いた。


 ***


「お母さま。その指輪はどうしたの?」

 顔をあげるとフルヴィアが不思議そうな顔をしている。物思いにふけっていたアントニアはニコリと笑うと愛娘を抱きしめた。

「ちょっと昔のことを思い出していたのよ」


「そうなのね。お父様の指輪に似てるけど、あれ?」

 困惑を浮かべるフルヴィアの頭をアントニアはそっと撫でる。

「確かに似ているわね。でも、別物よ。だって……」

 外から力強い声と賑やかな声が聞こえてくる。


 駆け込んできたユリウスがアントニアに飛びついた。

「お母さま。剣の稽古でお父様に筋がいいと言われたよ。でも、ぜんぜん敵わないや」

 後から入ってきたデキムスが破顔する。


「そりゃあ、父さんは何年も剣を振るっているんだ。でも、本当に強いのは母さんなんだぞ」

「知ってるよ。自慢の髪の毛を切って売ったお金で父さんを探し出したんだろ。何度も聞いたよ。あ、これがそのニセモノの指輪だね」


「そういえば、どうしてお母さまは本物じゃないと分かったの? お父様。ちょっとその指輪を外して見せてくださいませ」

 慌てて止めようとするアントニアだが、デキムスは外してフルヴィアに渡す。目を細めて内側を見ていたフルヴィアが手彫りの小さな文字を読み上げた。

愛は全てに勝つamor vincit omnia?」


 フルヴィアが顔を上げると、意外とロマンチストな父と実はおてんばだった母が、ちょっと頬を染めながらお互いを見つめあっているのを発見するのだった。

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