Column6 その者は「言葉の誤りを指摘する者」に値するのでしょうか

*今回はいつものColumnと違って、楽しい内容ではありません。ここでは主に過去に言葉の使い方に関して指摘を受けて、悲しい思いをしたことを綴っています。

 よって、苦手な方は読まない方が良いかと思います。これから読む方も、念のためお気を付け下さい。



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 私は、過去に何度か誤字脱字の指摘や、言葉に対する指摘を受けたことがあります。

 実を言うと、私自身は積極的にそれを望んでおりません。「『NIHONGO』を執筆しているくせに何を言うか」と申される方もおられるかもしれませんが、理由があるのです。いくつかありますが理由の一つを、これから語ります。

 『NIHONGO』を連載する以前からそうですが、私はプロフィール欄などに、誤字脱字の指摘をお願いするような言葉は載せておりません。しかし、時々ご親切にお知らせをしてくれる方がおられます。もちろん、良心的で的確な指摘に関しては受け入れています。それは私のために言って下さったことであり、ちゃんと気持ちがあることが分かっているからです。


 言葉に対する指摘のなかで、とても親切だった方がおります。

 私が本文で誤って使っていた言葉について、その方は応援コメント欄に本来の使い方を書き残してくれました。ですが私の矜持が傷つかないよう、私の修正を見届けた後に、指摘を書いたコメントを自ら消して下さったのです。その上、公開している全てのエピソードを読み、さらに応援もして下さいました。

 指摘して下さった方は、今まで接点のない方です。私の作品を陰では読んでいたのかもしれませんが、アクションはありません。少なくとも私の記憶にはない方でした。

 そのためなのか、尽くせる限りの心配こころくばりをして、私の誤りを正してくれたのです。

 それは颯爽としていて、心地が良いものでした。

 これは簡単にできるものではなく、今でもこの方の行為を思い出すと、心が温かくなります。


 その一方で、私の心を傷つけるような指摘をした方もいらっしゃいます。


 その方は一見さんでした。ふらりと現れ、突然コメント欄に「あなたが使っている〇〇という言葉は間違っている」という指摘を投稿したのです。それはとにかく長々としていて、最後には「私ならそんなことはしない」と書き去っていきました。ショックでした。

 言った本人にしてみれば、「間違っているままで恥をかくより、直した方がいいだろう」という、私に対する優しさだったのかもしれません。

 しかし、私は自分で書いた文章の中に誤りがあったことよりも、この方にを書かれた方が恥ずかしかった。そのときの心境は、まるで大勢の人の前で叱られているような、身が縮こまるような思いでした。

 それ故に疑問に思ってしまいます。


 ――この方の指摘は、本当に私に対する優しさだったのだろうか。

 ――言いたいことを言って、マウントを取ってすっきりしただけなのではないだろうか。


 そんな風に思ってしまいます。


 念のため、私の使い方が誤っているのかどうかを、複数の辞書を引いて確めてみました。

 「〇〇」に入る具体的な言葉は事情により言えませんが、確かにその方の指摘は合っていました。合ってはいましたが、完全ではありませんでした。

 何故ならどの辞書を引いても、私の使い方を「誤り」としていませんでしたし、中には「〇〇も可」としているものもあったからです。またネットで使用されている状況を調べたり、周囲の人にも聞いてみたりしましたが「〇〇を使っても良いと思う」と言う意見もありました。

 つまり「〇〇」という言葉は、色々な事情ではっきりと「誤り」と言えない部分があったのです。

 それゆえに、「この人が長文を書いてまで、覆さなければならないものではなかったのではないか」と私は今でも思っています。


 「誤りを正すこと」は「正論」なのでしょう。間違いを多くの人に伝えるよりも、正しいことを広める方が重要であることは分かっています。

 しかし、だからといって「正論」が常に「絶対的な正しさ」とは限らないと私は思います。

 また正しさを指摘するにも、配慮や気遣いが欠けていたら、言われた方は反発し、余計にその間違いを蔓延させることにもなりかねません。

 相手の表情も声色も分からない文字の世界では、対面するときよりも丁寧に接することが必要です。相手の誤りを指摘する際は、特に慎重にならなければなりません。

 ですがその方からは、私に対する配慮は感じられませんでした。

 その人は「十分に配慮していた」と思っていたかもしれませんが、私にはどうしても、指摘された文面から見出すことが出来ませんでした。


 それでも私は、恐怖によって「〇〇」という表記を全て、指摘した人の通りに直しました。もし私がまたどこかで「〇〇」と表記したら、何か言ってくるのではないかと思ったからです。

 しかし、指摘の文章を投稿した方は、二度と戻ってくることはありませんでした。良かったことなのかもしれませんが、私が傷ついたことなどきっと露とも思っていないでしょう。

 想像するにその方は、自分は良いことをしたと思っているのかもしれません。いえ、むしろ傷ついたかもしれないと想像し、密かに喜んでいるかもしれません。

 それくらい、私にはその方からは優しさが見えませんでした。

 このときのことを思い出すと、今でも肌が焼かれたようなヒリヒリとした痛みを感じます。

 これにより、私は他者から指摘を受けることに対して警戒心を抱くようになりました。そのため有難いとは思いつつも、人からの指摘を処理する際には、大きなエネルギーを消費するので、中々受け取るのが難しいと感じます。悲しいことです。


 そういう経緯もあって『NIHONGO』では、読むことで「自分で間違いに気が付くことができる」ような内容にしているつもりです。

 私は『NIHONGO』を書き始めて、色々なことを学びました。

 複数の辞書を調べることで、その中にも相反する意見があること。

 「誤り」と思えたものが、「正しい場合もある」ということ。

 つまり言葉は、そう単純ではないということです。

 親切に言葉の指摘をする人もいるかもしれません。ですがその場合は、慎重に調べてから提示しなければなりません。言葉の指摘はマウントをとるものではなく、その作品がより良いものになるように願って行うものであることを、肝に命じる必要があります。それゆえに、指摘する際の言葉遣いにも、よくよく注意したいものです。


 最後になりますが、誤字脱字の指摘を受けて辛い思いをしたことがある人に向けて、言葉を贈りたいと思います。

 確かに、誤字脱字は入力ミスや変換ミスによって起きることはあります。その間違いを指摘されたのであれば、素直に直すのが良いでしょう。折角のいい物語も、誤字があったら勿体ないです。自分の物語のために、直してあげる勇気は必要です。

 しかし「違和感を感じる」「的を得る」といったものは、実は辞書によって取り扱いが違っており「正しい」としている場合もあるのです。これは言葉のプロフェッショナルである辞書の編集者でも、頭を悩ます事柄であるため、そう簡単に「誤り」とは言えないのです。

 重要なのは、自分が書いた文章の中である言葉に対し他者から指摘を受けたとしても、それが本当に誤りなのかどうかは自分でも調べた方がいいということです。

 そして、自身でやはり「正しい使い方をしている」と思ったときはそれを貫いて良いと思います。もちろん、その逆の場合は自身の間違いを素直に認めるというのが、良いバランスではないでしょうか。


 言葉は生き物であり、捉えるのが難しいものです。だからこそ間違いも頻発してしまう。取り扱うのは容易ではありません。ですから、文章を書く・言葉を扱うのは難しいのです。

 それでも、より良い文章を書こうとするのであれば、誰かの指摘を受けるのもいいでしょう。そのために切磋琢磨をするのであるならば、お互いを尊重し合える関係がいいに決まっています。

 その一方で、心無い言葉で「誤字脱字」や「言葉の指摘」をする者の言葉に耳を貸す必要はありません。それによってあなたが傷つく必要などないのですから。


 あなたの言葉を大切に――。

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