Column4 著者の責任

 以前、松岡圭祐さん著の『小説家になって億を稼ごう』について取り上げたことがあったと思うのですが、実はこの著書には「校正」について重要なことが書かれています。


 『小説家になって億を稼ごう』は表題通り、小説を書くための過程が書かれており、そのなかに「校正」「校閲」について書かれた項目があります。自身の書いたものが書籍になることを夢見ている方であれば、「校正」や「校閲」というものがどういうものであるかお分かりになることでしょう。

 「校正」は、松岡さんの言葉をお借りすると「ひとつ前の工程と現在の文章を比較し、正しく反映されているかどうかをチェックする作業」です。

 一方「校閲」は、「文中の誤りを正すこと」です。

 この2つは説明する辞書や書籍(もしくはそれらを取り扱う機関)によって同じ括りに入れられる場合もあるようなので、絶対にそうであるとも言いきれないようですが、どちらも「文中の誤りを正すこと」という意味を持っています。とりあえず、今回のColumnでは「校閲」という言葉で統一してお話いたしますね。


 さて「校閲」ですが、皆さん、校閲スタッフの方が見てくれたから絶対に全ての間違いをしてきしている、とお考えになっているでしょうか。

 否。校閲スタッフの方も、人間です。間違いも見逃しも必ずない、とは言い切れないようです。

 私も松岡さんの書籍を読んで初めて知ったのですが、某出版社の出版契約書には、校正漏れなどがあった場合、全て著者の責任であることを明言した条項があるそうなのです。

 もちろん校閲スタッフの方は、それに関してはプロフェッショナルの方々ですし、念入りにチェックしています。

 その出版社さんが契約書にその条項を入れた明確な理由はわかりません。しかし、松岡さんが推測するに「関わった作者さんとトラブルがあったのかもしれない」とのこと。よって契約書には「作者さんの責任ですよ」ということが記載されているんですね。

 そういえば今年の春ごろに、著名な方の新書(新刊)を購入したところ「人口」と「人工」が間違って記載されているものを発見してしまいました……。

 有名な方の著作でも、こういうことが起こり得るのです。


 「校閲」において、どこまで直すかというのはある程度決まっていますが、細かいところは出版社や取り扱う書籍によっても違います。

 しかし、校閲者に求められるものはことであって、実際にそれを正すかどうかは作者に委ねられます。

 作品には著作権があります。よって、校閲者は書いた文章のなかで誤っていることや表記の揺れが生じているものを示したとしても、直すことを強要することはあってはなりません。


 これまで『NIHONGO』で、沢山の言葉について取り上げてきました。

 しかし私はここに自身の考えは載せても、相手に対して直すように指示したのは、全て依頼があったものに限ります。それは相手が文章にして私から何らかの意見を求めているためであり、それ以外に関してはそのまま見過ごしたままにしております。絶対に誤っていると分かっているものでも、時と場合によっては何も申しません。やはりそこには「校閲」や「校正」の難しさがあるからです。


 『NIHONGO』でご紹介したもののなかには、人によって意見が異なる使い方があるものがありましたよね。

 「不要」と「不用」や、「思う」と「想う」は線引きが個人によって異なっていたり、ときには決まりによってに委ねられているところもあり、表記が揺れやすく、人によって使い分けの感覚が違うようでした。

 その場合、何を基準にするのかというのは、作者に委ねられます。

 校閲者が文章を見て、それらの表記に赤を入れたとしても、辞書なので絶対的な正しさがない場合は、作者が決めます。その際、皆さんは何を基準に表記を決めるのかを考えなければなりません。


 また差別用語に関しても、物語の展開上必要な言葉である場合があります。校閲者はそれに対して指摘をすることでしょう。しかし、それをどうするかは作者次第です。

 私はスタジオジブリの『天空の城ラピュタ』が好きなのですが、そのなかでシータが母親に習ったまじないを教えてもらうシーンがあります。そこで、色々な言葉を習ったようですが、こんな印象的な言葉があります。


 ――滅びのまじない。いいまじないに力を与えるには、悪い言葉も知らなければいけないって。でも決して使うなって。教わった時、怖くて眠れなかった。


 とても深いなと思いましたし、私の好きな言葉です。

 シータの場合は、まじないかもしれませんけど、言葉も同じです。

 現実では使わなくても、良い言葉を生かすには、悪い言葉を知っている必要があると私は思うのです。

 それと同様に物語で悪い言葉(差別用語など)を使う際は、慎重にならなければなりませんが、絶対に使ってはいけないということではないと思います。

 私たちはどこかでその言葉を知らなければなりません。知らないと、悪い言葉かどうかも分からないのですから。

 物語はよく、「ワクチン」という表現を用いられることがあります。

 それは、これから先起こり得ることに対して書かれた物語に関しては、その耐性を付けられる可能性があるということです。

 つまり、私たちは悪い言葉を物語で知ることによって、「悪い」と知ることが出来る。そのため、私は作者さんの方針であれば、物語の中に「悪い言葉」が入っていることも一つの表現と考えております。しかしそれは勿論、本当によく考えた上で使わなければならないもの、ということは肝に銘じなければなりませんが。


 話がまとまらなくなってきましたが(私の悪い癖です)、校閲者に指摘されたもののなかで、絶対に誤りだと分かるもの以外は、最終的に言葉を選ぶのは作者さんということです。

 通例からはみ出した使い方をしていた場合、それが世間一般に通用するか(受け入れられるか)どうかは分かりませんけれども、それを選ぶのは作者さんです。(逆に正しい言葉を用いていても、人々の認識が違うと誤って解釈をされることもあるやもしれません。「的を射る」「的を得る」問題は、辞書編集者の中でも答えが出ないままです……)

 そのため『NIHONGO』で私が色々申したとしても、ご自身の考えがあるのであればそれを通してよいと思います。

 ということを、言いたかったという話でした。分かりにくくてすみません。

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