歩いて、本を売りに行く

甘木 銭

歩いて、本を売りに行く

 キーボードを叩く手がかれこれ十五分ほども止まってしまったので、いつも通り気分転換に散歩に出かけることにした。


「おぉいしょぉっとぉっ!」

 呻き声を上げながら、トイレに行くのすら億劫になっていた重い腰を何とか持ち上げる。


 腰というものはその時の気分でいくらでも重さが変わるものだ。


 家を出る直前に、部屋の隅に置いてあった紙袋が視界に入ったので、ついでに古本屋にもよることにした。

 紙袋の中には、昨日のうちにまとめておいた本が三十冊ほど入っている。


 玄関に置かれたサンダルをつっかけて、少し思い扉を押し開く。


 最近レポートが全く捗らず、ふらりと外に出ることが増えた。

 大学に行く前に少し。大学から帰って少し。


 金が無いので、気分転換がこれしか出来ない。


 頭が全く働いていないのに足ばかり動かしているので、一ヵ月前に着手したレポートは、既に締切一週間前になっている。


 歩けば頭がすっきりしてパフォーマンスが上がるって聞いてたんだけど。


 紙袋の細い持ち手を指の腹に食い込ませながら、アパートの階段を、バランスを崩さないように慎重に降りる。


 地元を離れて二年。

 ずっとこのアパートに下宿しているが、この階段だけは未だに少しでも気を抜くと転がり落ちてしまいそうになる。


 歩き慣れた道へと今日も一歩を踏み出しながら、途中辞めのレポートのことを考える。

 教養科目の調べもの。


 大体なんだ教養科目って。

 僕は歴史を学ぶために大学に通っているのに。


 なんだ「運動と健康」って。

 そんなもん本一冊読んだ方が早いだろう。

 わざわざ何回も講義をする必要があるとは思えない。


 レポートの必要性も全く感じない。

 成績を取るためだけの勉強など面倒なだけだ。


 図書館で参考資料を借りたが、情報をまとめるのがまた面倒だ。


 英語の講義も納得できない。

 いや、英語教育の必要性は分かるのだ。

 しかし授業内容があまりにもお粗末すぎる。


 大学側が「英語教育もしっかり行っています」と対外的にアピールするためだけにやっているとしか思えないクソ授業だ。


 ダメだ、やはり歩いても全然頭がすっきりしない。

 頭は回るようになったかもしれないが、思考がマイナスな方へとずんずん沈んでいく。


 愚痴っぽい考えを無理矢理にでも切り替えようと、信号のない交差点の前で立ち止まる。


 すると、左手からスピーカーから流れているらしい音声が聞こえてきた。


『……十分ご注意ください。空気が乾燥しているので、大火事に発展する事例も増えております。皆様、火元には……』


 他にほとんど車が通らない道をゆっくりと進む、重量感のある赤色は、まぎれもなく消防車だった。

 緊急出動のイメージがあったが、こんなこともやるというのは初めて知った。


 マッチ一本家事の元~、みたいな奴か。

 そっちも昔の漫画でしか知らないけど。


 歩みを再開しながら、ちらりと道の端を見やると、吸い殻が落ちていた。


「お前みたいな奴だぞ」


 呟くように言い捨てると、紙袋を左手から右手に持ち替えた。


 交差点を過ぎれば、住宅街に入る。

 平日の昼間だからか、行き交う人も無く、しんと静まり返っている。


 しかし角を曲がったところで、キャッチボールをしているらしい小さな子供と老人の姿が見えた。


 子どもに力一杯投げられたボールは予測も出来ない方向に飛ぶが、こちらに背を向けたおじいさんは、軽々動いてボールを捕まえる。


 道順的にすぐにその場から離れてしまい、僕が彼らの姿を認めたのは一瞬のことだったが、その光景は妙に僕の頭に残った。


 そのうち、あの後ろ姿は本当におじいさんだったのかと疑問を抱くようになった。


 短めの白髪だったのでおじいさんかと思ったが、小柄な方だったので、もしかしたらおばあさんだったかもしれない。


 大量生産品らしいジャケットを着ていたので、服装からは性別も年齢も測りにくい。

 つまり髪を白く染めた若者という可能性もある。


 答えは分からないが、答え合わせをするほどの魅力も感じなかったので、疑問はその場に捨て置いた。

 小さな疑問も、もはやどうでもいい。


 住宅街を抜けると、土手沿いの道に上がる。


 川の方から吹いてくる穏やかな風が、頬に当たって気持ちがいい。

 空気はまだ少し冷たいが、寒くはない。


 この土手沿いの道を歩くのが一番好きだ。

 河川敷に残る自然の為か、漂う空気が心地よい。


 日光に輝く川面とその脇に映える緑もお気に入りだ。

 手に提げた紙袋が無ければなお良かった。


 歩いているうちに、サンダル履きの足が痛くなってきた。

 スニーカーで出てくればよかったと後悔する。


 なんでそんな簡単なことにも頭が回らないんだ。

 足のこすれるサンダルが、ペタペタと音を立てる。


 ぺったんぺったん。

 僕は歩き続ける。

 遅々としていて愚かな歩みを続ける。


 こんな風にバカみたいに歩き続けているから、しょうもないことが次々と頭の中に浮かんでくるんだ。


 しかし歩かなければ棒に当たることはできない。

 キジも鳴かなければ撃たれることはない。

 猿はすでに木から落ちた。不幸な事故であった。サルスベリである。


 一日一歩三日で三歩。三歩すすんで二歩下がる。

 これは三歩目を踏んだ瞬間に二歩下がるのか二日間かけて二歩下がるのかということで大変な議論になったことがあった。


 同級生の佐藤くんが三百六十五を割れるのは五であると主張したことによって五日で一歩が採用されると思いきや、田中くんの「閏年の三百六十六であれば三でないと割れないという主張により、閏年だけは三日で一歩になるという結果で落ち着いた。

 生産性の欠片もないが、これでこそ大学生の会話というべきものだ。


 そういえば、以前タイムマシンがあったら歴史上の事実を確認するかという話題も出た。


 友人の間ではその話題で少し盛り上がっていたが、自分は冷めてしまって「どうでもいい」と答えた。


 決して多くはない史料から事実を解き明かすのは確かに大変な作業だ。

 しかし、歴史というのは事実を直接確認すればいいというものでは無い。


 見えないところに何があったか。

 それがどう今に繋がったか。

 そこから未来をどう捉えるか。


 そこまで含めて歴史なのだ。


 滔々と語ったら場がしらけた。

 歴史学科に居ても、歴史とまともに向き合っている人間はあまりいない。


 一方僕が向き合っていなかったのは。


 サンダルの痛みを忘れた頃に、土手を降り、通い慣れた古本屋の前についていた。


 個人経営ながらも大きなこの書店には、今となっては手に入りにくいような往年の名著なども眠っていて、歴史を学ぶ上で中々にありがたい存在である。


 しかしながら、今日僕はこの書店で購入した本まで売ってしまおうとしている。


 仕方がない、金が無いのだ。

 仕送りは四日後だというのに、財布と冷蔵庫がすっからかんなのだ。

 バイト代が入るのはもっと先。


 僕は店員が座るカウンターに、少し勢いをつけて重い紙袋を置いた。

 それに反応する店主らしき男性の顔も、もう見慣れたものだ。


 人間は三日の絶食でも命を失いうる。

 命あっての物種だ。


 今の自分を形作った本たちが。

 自分の糧となった本が。


 これから明日一日分の糧食を得られる程度の値段で買いたたかれていくのだ。

 それはまるで、自分の身を切り売りしているようだ。


 しかし、身を切って一日をしのぐ痛みにも、もう慣れてしまった。


 カウンターの向こうの彼は、一冊ずつ本を確認して、電卓をたたく。

 そこに表示された数字を見るに、よかった、一日はどうにかなりそうだった。


 一日を過ごせるだけの食料があれば、三日はなんとか持たせられる。


「お願いします」


 その一言で、目の前の本は、もう「僕の本」ではなくなる。

 店主がトレイに小銭を並べ、本をカウンターの向こうへ引き上げようとする。


「あ、」


 思わず、本に手が伸びた。


 店主が怪訝そうな表情でこちらを見つめる。


「いや、なんでもないです」


 そうだ、なんでもない。

 この小銭を受け取ろうとするからには、仕方のないことだ。


 急いで手を引っ込めると、それ以上本を見ているのが嫌で、咄嗟に目を逸らした。

 その一方で、店主はまだ僕の方を見ているようだった。


「この本、多分棚に並べるまで時間かかると思うんだよね」


 不意に、静かな声が響いた。

 声の主は、確かめるまでも無く目の前の男だ。


「このままひとまとまりにしとくと思う。棚に並ぶ前に買い戻しに来たら、そのままの値段で渡してあげるから」


 思わず、視線が前を向いた。

 まずは店主の顔へ。

 そして、そのすぐ下の本たちへ。


「ありがとう、ございます……」

「棚に並ぶ前なら、まだ商品じゃないからね」


 それだけ言うと、店主は本を抱えて、カウンターの裏の棚の方へと歩いて行った。

 裏の本棚には、以前僕が売った本の背表紙が見えた。


 呆然としながら店を出る。

 冷たい空気が顔にぶつかって来るが、なんだかぼんやりとした感触で、現実感が無かった。


 空になった紙袋と、ポケットに直接入れた小銭を持って。

 また土手に上がって、来た道を引き返す。


 川の方に、蝶が舞った気がして辺りをきょろきょろと見回す。

 何もいない。


 当たり前だ。

 蝶が出てくるにはいくらなんでも早すぎる。


 ひらひらと、花の周りを飛び回る蝶。

 ふと、見えない蝶を羨む気持ちにかられた。


 僕は歩く。

 歩いてまっすぐ家に帰る。

 いや、まずは飯を買わないと。


 当面の問題は解決した。

 何を買って帰ろう。

 できるだけ腹持ちのいいものがいいだろう。


 そういえばレポートがまだ途中だった。

 腹が膨れれば、また筆も進みだすだろう。


 そう思いたい。


 川の方から吹いてきた風は、先ほどよりも少し暖かかった。


 もうすぐ春である。

 しかし、まだ遠い。

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