12:地下水路

 酒場『夜の恵み亭ソムニファブラ』を出て早々にタオ=ミリメントは後悔した。


 帝国の首都ハリオネの地面の下を流れる人工的な水路網は、普段は生活用水を垂れ流し街の生活を保つ為に存在する。


 異常事態の際の知る者ぞ知る緊急経路であるが、街と違い地下水路内の清潔が常に保たれているかと言われればそんなはずはなく、久しい巨大な生命の到来に先住していた小さな蟲達が水路内を走り回り、膨大な湿気とそれが吸い込んだ悪臭が踏み込んだ者の胃袋をひっくり返そうと揺さ振りを掛けていた。


 頼りになるのは先を行くアバカスが握る小さなランタンただ一つ。


 か細い暗闇の迷路の中、大量に詰め込んだ早めの晩飯がこの拷問地味た短い旅路の準備にしかタオには感じられない。そんなタオとは裏腹に、アバカスは慣れたように甲高い靴音を地下水路に反響させ迷わずに水路の先へと足を伸ばす。


「地下水路といやあ、帝国は地下水路を処刑場の一つとしても使ってて怪物を飼ってるなんつう噂があんだが」

「その口を閉じろっ、これ以上ふざけた事を言うようならその口縫い合わせるから! 最悪だッ、昨日から日に日に悪いことばかりが重なっている!」

「最悪ならよかったな、これ以上悪くなる事もねえ」


 アバカスの皮肉にタオは大きく舌打ちを返し、体に纏わりつくように漂う陰気な空気を振り払うように足を動かす。道筋の分かるアバカスはまだしも、タオからすれば到着までの時間も距離も分からぬ暗い小道。


 剣で斬れる相手ならまだいいが、触れる事の叶わない暗闇が相手では不安に蝕まれる事しかできない。無駄に帝国の事情に詳しい冒険者からの噂話のおかげで不安も一入ひとしおだ。


「この水路はどこまで続いてる?」

「宮殿を中心に首都郊外の大河までだ。はぐれるなよ? 最悪死ぬまで彷徨さまよう羽目になる」

「はぁ、よくこんな道を知っているものだ。他に誰が知っている? 私は寝耳に水だ」

「一部の王族貴族、騎士団に聖歌隊の隊長達。それに属する暗殺部隊なら全員御用達だ。普通の騎士がここを歩く事はまずない。得したな嬢ちゃん」

「嬢ちゃんではない。まったく、貴様の言う得は私にとっては損だ。貴様といるとどんどん身と心がけがされている気がする」


 ランタンの灯りによって伸びるアバカスの影が不気味に揺れる。最初会った時は騎士を辞した冴えない冒険者だと思っていたのに、擦れた見た目にさえ目を瞑れば、今でも帝国の暗殺者だと言われれば納得できてしまう。


 人の知らぬ帝国の側面を知る者。暗殺部隊に所属していた者がその職を辞す事は難しい。多くの機密を知っており、なんの制約もなしに辞せる事などまずないからだ。


 それがなぜ呑気に帝国の首都で冒険者などやっているのか。ここまでの短かな軌跡を見つめても、タオには魔女よりアバカスの方がよっぽど不気味だった。


暗闇に響き消えてゆく足音が鼓動を早め、沈黙を追いやるようにタオはアバカスの背から目は逸さずに唇を動かし続ける。


「なぜ貴様は騎士を辞めた? キアラ団長が貴様を頼った事といい、騎士を辞めた理由がさっぱり分からない」

「そりゃ簡単だ。割りに合わねえ仕事をさせられて嫌になったのさ」

「割りに合わない仕事?」

「今嬢ちゃんがせっせと取り組んでるようなヤツだぜ」


 誰もやりたがらない仕事を投げられる蜥蜴トカゲの尻尾。暗にそう言うアバカスにムッと口端をへの字にタオはひん曲げるが、間違いではないので反論できない。


 それをいいことにアバカスは小さく笑い、わざとらしく手に握るランタンを揺らしカチャカチャと音を立てる。跳ね回る金属音が心地悪い。


「それに騎士を辞めたのなんて俺だけでもねえ。特に三年前はな。大戦の終焉と共に騎士団に聖歌隊合わせて百人近く辞めてんだろ」

「そうなのか?」

「魔女様のおかげでな」


 魔女が一夜にして大戦を終わらせてくれたおかげで、それまで多くの命を散らせた騎士団や聖歌隊の功績はほぼほぼ水泡に帰する。騎士と魔族との戦闘など小競り合い以上の意味はなく、大戦の結果だけを見れば、多くは無駄死にの量産だ。


 それに嫌気がさした多くの騎士達が騎士団や聖歌隊を辞した。帝国だけでなく他の多くの国々でも例外なく。


 その結果、ちまたにグスコ傭兵団のような小組織が乱立したのである。故に大戦を経験した者達の中で魔女を好む者は多くはない。


「だから貴様は魔女を嫌うのか?」

「いいや全く関係ねえな。大戦を終わらせてくれた魔女様にその点は感謝だ。世界中駆け回らずに済むようになったからな」

「……じゃあなにを嫌うんだ貴様は? 別に私も好ましく思っている訳でもないけど」


 そりゃニコラシカ卿と仲良くしてる嬢ちゃんには分からねえだろうさ、とは言わず、その皮肉を飲み込んでアバカスは大きなため息を暗闇の先に吐き出した。別に魔女の功績や力を疎んで嫌っている訳ではない。


「別に? 奴らの性分が気に入らねえ。魔女とのお喋りなんぞも要は人形遊びと変わらねえのさ。俺にそんな趣味があるように見えるか? それにだ、奴らは得にならねえ事はまずしねえが、逆に言やあ、得になる、必要であると判断したならなんでもやる。そこが気に入らねえ」

「金を積めばなんでもやりそうな貴様とそこまで変わらないじゃないか」

「……嬢ちゃんよ、そこの先を覗いてみろ」


 お返しにとばかりにタオがしたり顔で皮肉を口にすれば、足を止める事もなく、アバカスは通り過ぎながら横に伸びる水路の道を指差した。


 首を傾げながらも暗闇の先に伸びる水路へとタオが顔を向けた先に光る赤い複眼の瞳が六つ。キチキチと牙を擦り合わせ、タオの双眸の輝きを掬い取ると、大顎を開けて暗闇の奥から深緑色をした巨体が跳び込んで来る。


「キシャァァァァァァァッッッ‼︎」

「きゃあああああッ⁉︎」


 ガシャリッ‼︎ と響く鋼鉄の音。暗闇と同化していた黒鉄の鉄格子が怪物の行く手を阻み、ギチギチと不安を煽る音をきしませる。薄透明な羽を叩き合わせ耳障りな音を奏でながら、伸びる大鎌の爪がタオの鼻先のぬるい空気を引き裂いた。


「ちょちょ、ちょっとなになんなのこいつはッ⁉︎」

「バグズバーサーカーって名前のエルフの国の森に群生してるモンスターだ。蟲使いでもいなきゃ目についた奴をなんでも貪る森の掃除屋。見るのは初めてか? 鉄格子があって良かったな嬢ちゃん?」

「おまえぇぇぇッ‼︎ ほんとに嫌いッ‼︎ なんで帝国はこんなの地下に飼ってんのよ⁉︎ やだもうキモいッ‼︎」

「侵入者防止の為とかに決まってんだろ。それよか叫ぶんじゃねえ、大声出すと──」


 反響するタオの声と共鳴するように、キチキチと周囲から硬質の殻を小刻みに弾くような音が返って来る。音の発生源は鉄格子を破ろうと無理な前進を続けると怪物からだけではなく、前後左右に伸びる水路の暗闇の先から。


 水路を根城にしている怪物は一匹だけではない。足音を掻き消すかのような不気味の音色を止める手立てなど存在せず、思わずタオの手が前に伸びる。


「ちょっとアバカスッ‼︎ どうするのよ⁉︎」


 肩を掴もうと伸びたタオの右手が虚空を掴む。返事はなく、慌てタオが顔を向ければ、不良冒険者の姿はいつの間にか消えており、持っていたはずのランタンも床にぽつんと置かれている。


「嘘でしょっ⁉︎ アバカスったらッ⁉︎ ふざけてないで返事して‼︎」


 返事はない。代わりとばかりに返事をしてくれるのは、巨大蟲達の羽音のみ。どこへ向かおうとも水路の地図などタオの頭の中に入っていなければ、頼りになるのはランタンの灯りだけ。


 ただ、燃料となる油が尽きたのか、ふっとその灯りも静かに消えてしまう。漏れ出そうになる嗚咽を飲み込み、タオは虚空に伸ばした手で口を押さえた。


 僅かな吐息さえも怪物を誘う甘い香りになってしまうような気がして。


 それは正しく、ただ息を潜めるには遅過ぎた。

 

 暗闇の奥で六つの血のように紅い瞳が揺れる。


 水路の石壁を削る音が黒の奥から飛来し、タオは剣の柄へと手を伸ばし剣を引き抜く。途端、体が引っ張られた。一寸先は闇、黒に感覚が塗り潰され、上下左右も分からない。


「や、やだっ⁉︎」


 喉の奥から絞り出した絶叫も口を塞がれ形を得られず、剣を振り上げようとした腕が上から凄い力で押さえ付けられる。肩で息をしながら定まらぬ目の焦点が平穏を取り戻し始めたところで、ガコン、と鳴るマンホールの音。タオの視界の端に白髪混じりの黒髪が揺れる。


「うるせえ嬢ちゃん、もう学院の中だ。叫ぶな見回りにバレるだろうが」


 押さえ付けられたまま瞳だけを動かしてタオが周囲を眺めれば、赤い瞳の姿はどこにもなく、あるのは均等に並んだ男性用の小便器とタイルの貼られた床と壁。


 月明かりの明暗にタオが慣れ暴れなくなった頃、ようやくアバカスはため息を零し騎士の拘束を解いた。


「なにを急に剣抜いて暴れてんだ。騎士団で習わなかったか? 騎士が剣を抜く時は命を賭す覚悟ができた時だけだっけか?」

「ふざけッ、わ、私はほんとに死ぬかとッ。おまえほんとに斬るぞ一回ッ。学院の近くまで来てたなら来てると先にッ。これだけじゃないッ、一回一回全部先に私に説明しなさいよッ」

「それだけ元気なら問題なさそうだな。取り敢えず侵入には成功した。大声出すなよ?」


 調子を崩さず立ち上がるアバカスを見上げて一度強く剣の柄を握り締めるが、渋々とタオは刃を腰の鞘に収める。


 蟲達の合唱が這い上って来そうな鉄製のマンホール。それを一度見下ろし、苦い顔のまま皮膚の上に残る寒気と表情を吹き飛ばすようにタオは咳払いを一つして。


「色々言いたい事はあるけれど、取り敢えずあれよ、ここまでの色々は忘れなさい」

「それはどれだ? 嬢ちゃんが騎士っぽい口調を崩しちまって嬢ちゃんらしく叫んでた事か? それとも出た先が男子便所だった事か?」

「どっちもッ」


 了解とばかりに雑に手を挙げ男子便所の扉を開けるアバカスを睨み付け、今一度マンホールを見下ろすとタオは足早にその背を追った。


「……帰りは上の道か?」

「どっちがいい? 俺のオススメは」

「上だな? よし、上だ」


 一人強く頷く女騎士を呆けた顔で見つめ、まあどっちでもいいかとアバカスは首を軽く回して雑念を振り落とす。






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