第30話
夜の道を一人で歩く。午後に夕立が降ったせいで、アスファルトはしっとりと湿っていて、街灯の白い明かりに濡れているように見えた。空気は澄んで、見上げた空には光の輪を描くように煌々と輝く、細く尖った月が浮かんでいた。
璃夕と知り合ってから、ときどき夜の外出をするようになった。行き先が木嶋の家だと知っている祖父母は前ほど心配しなくなった。郁春さんが、口添えしてくれたのかもしれない。もともと彼と祖父は釣り仲間らしいから、祖父母も安心したのだと思う。
部活で帰りの遅い伊吹は、どうしても璃夕の所へ遊びに行く時間が遅くなる。伊吹は祖父母に璃夕は足が不自由であまり外を出歩けず学校にも行っていないと話したら、彼女たちはたいそう同情したらしく、快く遊びに行くことを許してくれるようになったのだ。一度見舞いに来てくれた璃夕のことを、祖母が気に入ったというのもある。
雨上がりの緑は海の匂いさえ押しやってしまうほど濃密だ。門の前へ立っただけで、庭の方から流れてくる花々の甘い匂いに圧倒される。
伊吹が門を開けて庭に回ると、人の話し声が聞こえた。どこか棘々とした声音は、両親の諍いを思い起こさせる。澄んだ高い声は、璃夕のものだとすぐに気付いた。応える声は、てっきり郁春のものだと思っていた。
「……園守先生?」
伊吹は庭先で凍り付いた。
園守は璃夕の腕を掴み上げ、その体を抱き込んでいた。右手を顎にかけ、璃夕の顔を間近に見つめている。いかにもキスをする瞬間というシーンだった。あと一秒伊吹の登場が遅ければ、二人の唇は触れ合っていたはずだ。
どうして、二人がキスをしているのだろう。
園守の肩越しに伊吹を見た璃夕の瑠璃色の瞳が丸く見開かれた。つねに飄々としていた表情に驚愕が浮かび、かっと頬に赤味が刺す。伊吹には、それがラブシーンを目撃された羞恥に見えた。
璃夕は、しゃにむにに腕を動かし、園守の体を押しのけた。
乱れた髪が汗ばんで赤みがかった頬に張り付き、嫌でも伊吹には二人の関係に甘いものを想像させる。
園守は璃夕の様子から誰かが来たことに気づいたのだろう、振り向いた先に伊吹が立ちつくしているのを見て、彼もまた微かに瞳を見開いた。その唇に薄い笑みが浮かぶのを、伊吹は見た。
「何を、しているんですか?」
伊吹は震える声で、園守に問うた。璃夕ではなく園守に尋ねたのは、璃夕の口から答えを聞くのが怖かったからだった。園守はちらと璃夕を見、伊吹に視線を合わせると「見ての通りだよ」と飄々と答えた。
「見ての通り……?」
伊吹は呆然と璃夕を見る。何か言おうとして、今度は声が出てこなかった。
キスをしていた二人は、恋人同士なのだろうか。だけど、璃夕はついこの間の日曜日に園守と出逢ったばかりのはずだ。あれから、まだ一週間も経っていないのに、二人は愛を交わすようになったのだろうか。
(愛?)
自分が連想した言葉に、ぎくりとなる。まるで禍々しい魔法の呪文のように、それは伊吹の胸の中で毒素のように渦巻いた。混乱しそうだ。額を押さえて、どうすればいいのかわからないまま、誰かが自分をここから連れだしてくれないだろうかと考えた。
園守は裕哉に似ているらしい。璃夕は否定していたが、裕哉と璃夕の間に深い気持ちがあった事を、伊吹は気付いていた。その裕哉に似た園守に、璃夕が心を奪われても仕方がない。
裏切られたような気持ちがした。そんなふうに感じてしまった自分に、伊吹はますます混乱して、打ちのめされた。
彼のことを好きではあっても、それを璃夕に打ち明けたことはないし、当然だが受け入れてもらっているわけでもない。璃夕の優しさが同情に近いことを伊吹はよくわかっていた。伊吹は璃夕に同情されることが、決して嫌ではなかったし無様だと感じたこともなかった。彼はただ優しく真っ直ぐだった。伊吹は、彼の慈悲に縋りついて側にいることを許されているだけに過ぎない。
そんな自分が、二人のキスシーンを見て傷ついたり怒りを覚えたりするのはお門違いだ。璃夕には璃夕の心があって、今までだって十分彼に愛情を注いでもらっている伊吹が、さらに何かをねだることは傲慢というものだろう。
無意識に、伊吹は自分が璃夕を独り占めしていたかったのだと、今さらながらに気付いた。胸の痛みは独占欲だ。子どもみたいに、自分は璃夕に独占欲を感じてる。誰にも触れないで欲しい。自分にだけ触れて欲しい。自分だけに優しくして欲しい、笑って欲しい、抱きしめて欲しい、愛して欲しい。
その剥き出しの浅ましさに、目眩がする。自分はいつからこんなに無遠慮で傲慢で貪欲になってしまったのだろうか。
「伊吹、誤解だよ」
璃夕が言ったが、誤解の意味さえわからない。抱き合ってキスをしていることの、どこが誤解になるのだろう。眉根を寄せて璃夕を見ると、ふっと園守が笑った。甘い声だった。恋をしている声だ。
「まさか生徒に見られるとは、困ったな。笠原くん、明日学校で言いふらしたりしないでくれよ」
ぎっと璃夕が園守を睨んだ。
「伊吹によけいなことを言うな」
押し殺されて潰れた声だったが、怒りが隠されることなく滲んでいた。伊吹は焦った。
きっと、自分が覗き見たことで邪魔されたことを怒っているのだ。伊吹はじりと後じさった。璃夕に嫌われることが、何よりも怖かった。彼に恋をしているからだけじゃない。今の自分にとって、璃夕は闇深い夜の海を漂う船を、明るく導く灯台の光に似ていた。失えないのだ。失ってしまったら、もうまともに生きていけない。彼に嫌われるぐらいなら、あらゆる感情に蓋をして平静を装うほうがずっとましだ。
「あのっ!……あの、すみませんでした。俺、気付かなくて。あの、ごめんなさい。璃夕さん、本当に、俺……」
伊吹は急いで言葉を見繕った。盗み見したのはわざとではなくて、二人の邪魔をするつもりではなかったと伝えなければと思った。しかし、焦れば焦るほど言葉は空回りした。それでもなんとか悪意がないことを示すために、無理して微笑むと、璃夕が顔を顰めた。きりりと心臓が痛む。伊吹はどうすればいいのかわからなくなった。どうすれば、彼の怒りが解けるのか。
不意に、璃夕がつかつかと園守の側へ近寄ると、思い切り彼の頬を打った。強い音が響き渡る。園守はわざと避けなかったように見えた。むしろ面白そうに、璃夕を見ている。
「今すぐ僕の目の前から消え失せろ。二度と現れるな。そうすれば、今回のことは大目に見てやる」
静かな声だったが、冷たく凍えたような炎を感じた。絶対零度の熱だ。それはぎりぎりまで押し殺された璃夕の怒りを現している。園守は璃夕を見つめ、殴られて赤くなった頬を一撫でする。
「あなたは、外見に似合わず直情型なのですね。しかも手が早い。まるでお転婆なお姫さまのようだ」
軽口を叩く園守を、璃夕は無言のナイフで切り捨てた。園守は小さく嘆息をすると、ちらと伊吹を見て、視線を伏せた。
「とりあえず、今日はこれでお暇しますよ。詳しい話しはまた後日と言うことでね、璃夕。お邪魔しました」
自分の脇を通り抜けて庭を出ていく園守の唇が、うっすらと笑みに滲んでいるのを伊吹は見た。一瞬、歯噛みしたくなるような悔しさを覚えたが、凛然とした怒りを称える璃夕の顔を見ていたら、煙のように消えてしまった。
人魚姫 あきわ @akiwa_s
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