第29話

 久しぶりの学校は、思うほどあの事故を引きずってはいなかった。みんなあっさりとした様子で、休みの日の事を他愛もなく話し合っている。あの事故関係者の一人にあげられている伊吹は、教室に入るなりクラスメート達から漂うふわっとした雰囲気に、少しホッとした。


 教卓の前で光廣が配布物をかたづけていた。伊吹と目が合うと笑って「おはよ」と片手を上げた。


「足の怪我は良いのか?」


「ん? 体育はしばらく見学だな」


 ちょいと右足を差し出してくるので見ると、白いソックスの足首の部分がだぼっとしていた。たぶん、そこに包帯でも巻いているのだろう。かくいう伊吹も、両手にまだ包帯を巻いていた。光廣はそれを見て笑った。


「トイレ行くとき困まんだろ、それ」


「実は、手が洗えない」


「トイレ行った後、俺に触るなよ」


 歯を剥くようにして笑うので、伊吹も笑い返した。明るい気持ちだった。


 テレビでは学校の管理体制に問題があるのではないかだとか、もしかして生徒によって爆発物が仕掛けてあったのではと不穏そうに騒いでいたが、実際はそんな過激な所などなにひとつない穏やかなものなのだった。煩いのは外側ばかりで、内側はきちんと落ち着いている。きっとあの爆発だって、何かの偶然がうっかりと重なり合ったものに違いない。


「戸川は、もしかして今週週番?」


「そっ。佐々木が学校休んでるせいで、繰り上がり週番」


「え? 佐々木が? 怪我?」


「違う違う。事故とは関係なし。盲腸だって」


「ああ、そう。あ、配布物仕分けしてんの? 俺も手伝うよ」


 伊吹は鞄を机に置くと、すぐに教卓へと引き返して、朝のホームルームで配布するプリント類を種類別に分けるのを手伝った。休み中におろそかになった授業進行を少しでも取り戻すための、それぞれの科目の課題が山積みになっていた。その合間に、保護者宛への、事故に対する弁解や謝罪、詳細等を明記した書類が混じっている。


 なんとなくそれに気を取られていると、ぽんと肩を叩かれた。工藤だった。


「怪我もういいのか?」


 何でもない事のように尋ねてきた彼に、伊吹は笑って「かなり平気」と返した。工藤はちらりと一瞬だけ手の包帯に視線を向けたが、すぐに逸らした。光廣が茶化すように「トイレが大変だって」と言うと、彼は心底同情するという顔をして、伊吹の肩を叩いたのでまた笑った。


「笠原のおかげで、研究発表上手くいきそうだよ」


「ばあちゃん、役に立った?」


「かなりかなり」


 工藤は強く頷いた。


「津波の時リアルで見てたし体験してたから、いい話聞かせて貰えた」


「それは、良かった」


 何も知らない光廣が「津波?」と首を傾げたので、工藤は郷土史研究会の話しを説明すると、彼はあからさまに工藤に尊敬の眼差しを注いだ。彼曰わく「よくそんなクソ真面目な部活を喜々として活動できるな」という事らしいが、工藤にすれば、ずっと椅子に座り続けて何日も色絵の具ばかりをいじくりながら一枚の絵を仕上げる忍耐と努力の美術部に在籍している伊吹や光廣の方こそ、凄いと切り返された。もっとも凄いというのは言葉半分で、からかいの混じった皮肉も込められていただろう。


「あ、んでも、あの人。伊吹のお見舞いに来てた人、スッゲー綺麗な人でビックリした。目の保養になった。恋人?」


「え? 笠原恋人いんのか?」


 光廣がビックリした顔をした。伊吹も慌てた。


「違う違う。たんなる友達」


 というか片思いの相手なのだが、それを詳しく語る気はない。


「そうなの? 親しそうだったけど」


「どんな奴なんだよ、工藤?」


「スッゲー綺麗な人」


 どうやら工藤は、璃夕のことを男と気づかなかったのだろう。そうじゃなきゃ、恋人だとはいわないはずだ。確かに一見すれば、璃夕は女の人に見えなくもない。というか、はっきりとそう見える。自分も小さな頃間違えた。万人に認められる綺麗な顔というのは中性的なものだから、璃夕が男に見えなくても仕方がない。


「へぇ。会ってみたい。今度、紹介しろよ」


 伊吹は内心でどきっとした。彼には、あの学校帰りに覗き込んでいた家の憧れの君と伊吹が親しくなったことを話していなかった。というか、話せるタイミングを逃したままだった。話しずらいというのもある。


「うん、まあ、今度な」


 乾いた笑みを浮かべて、なにか話題を逸らせないかと考える。


 と、タイミング良く光廣の方が「そういえば、工藤はよく笠原のばあちゃんが津波のこと知ってるってわかったな。町の年寄り連中全員に聞いて回ったのか? 大変だったろう?」といった。


 工藤は、「園守先生が教えてくれたんだ」とあの時と同じように返事を返した。


「園守? どうして園守が笠原のばあちゃんのこと知ってんだ?」


 光廣の疑問は伊吹の疑問だった。工藤はきょとりと首を傾げた。


「なんでって、先生この町のことすっごい調べてて詳しいからだろ」


「なんでそんなに調べてんだよ」


「なんでって……」


 工藤も困惑した。


「一応郷土史研究部の顧問だし、先生独自に色々町の歴史とか調査してるみたいだし。今回俺達に津波のことを調べてみればって助言してくれたのも園守先生だし。調べることが好きなんじゃないのか?」


「それってどうゆう趣味だ?」


 光廣が呆れた。


「でも、園守って人魚のこと研究してんじゃなかったっけか? 人魚のことにも詳しかったぞ」


「人魚もある意味水辻の郷土史だからだよ。ほら、水辻を語る上で人魚伝説は抜かせないじゃん」


(人魚……)


 ふっと何かが引っかかった。伊吹は無意識に服の上から鱗を握りしめる。なんだろう。急に嫌な気持ちが渦巻いた。ただ、それは酷く漠然とした、靄のようなもので、伊吹自身説明の付かないものだった。


 結局喉に小骨の引っかかったような感覚は、一日中消えなかった。


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