第28話
心の中で「裕哉のバカ、アホ、オタンコナス、間抜け、とんま」とおおよそ、璃夕が陸の上で学んだ罵詈を順番に上げていった。が、それに応えてくれる人間はとうに故人であることを思い出して、なにやら悔しい気持ちになった。裕哉が死んだと聞かされたばかりのときは驚きとショックに襲われたが、時間が経つに連れて、これも裕哉流の意地悪じゃないだろうかと思った。何十年も後になって、風の便りを寄越してくるような意地の悪さはやっぱり裕哉らしい。いまだに璃夕が自分のことを覚えていて、哀しんだり怒ったりしているのを見て笑っているような気がした。
そう考えると、園守の存在さえ裕哉の魔手のように見えてくる。
「あいつ、ほんっっとうに性格悪かったからなぁ」
よく苛められた。かりにも海の精霊である人魚を、奪うわけでもなく愛でるわけでもなく、ただ気紛れに構い倒して苛めたりするような人間など、始めてではなかろうか。
外見は、あの園守という男に良く似ていた。細身で背も高くない。長く伸ばした前髪の隙間から銀縁の眼鏡越しに、いつも睥睨するように世界を見ていた。楽しいことも嬉しいことも知らないという顔をしていた。つまらないことばかり膿むことばかり、生きていてもしょうがないと漏らしていた。
世の中は戦争の真っ直中で、バカみたいに人が死んでいった。天秤の上にのせられた人間達は、定員が満ちて重みで測りががくんと傾くたびにぼとぼとと場外退場をさせられた。裕哉は、その天秤の上にものせられなかったあぶれものだった。
肺病病み特有の青白い肌に、骨のゴツゴツとした腕をしていた。遠くを見るときはいつも目をきつく細めていた。海を見るときの顔があんまり怖いので、何か海に対して恨みでもあるのだろうかと思ったほどだった。彼は、父も兄たちもみんな海の向こうで死んだと教えてくれた。
裕哉に意地悪をされるたびに、彼の家族を海が奪ったわけでもないのに、海に逆恨みしているんだと思った。
(……思い返せば、どれも嫌な思い出だな)
伊吹に言ったことは嘘じゃない。楽しいと感じた記憶よりも、苛立ちや哀しみや戸惑いの方が胸の中に強く残っている。生きることに膿んで世界を憎んでいた裕哉にとって、陸に囚われず自由に生きている璃夕は恰好の八つ当たりの相手だったのかもしれない。孤独を持て余していた璃夕にとっては、そんな裕哉が贅沢な我が儘を抱えてぐずっている子どもに見えて、苛立った。
愛情を交わしたことも確かにあったけれど、それ以上にお互いを憎んでいたのかもしれない。結局喧嘩別れをしてしまった。
その裕哉の一族の男が、自分を狙っている。
「因果だな」
門を潜ると、家の中はしんとしていた。庭先から零れる明かりは、伊吹が眠っている部屋のものだ。明かりを消さずに出てきたのを思い出した。
足音を立てないよう庭を回っていると、かたかたと障子が開いて、寝ぼけ眼の伊吹が顔を出した。きょろきょろと半目で辺りを見回しながら「璃夕さん?」と呼んでいる。
どうやら目を覚まして側に自分がいないことに気付き、捜しているのだろう。
璃夕はさっきまでの不愉快な気持ちが消えていくのを自覚した。胸の内から込み上げる愛おしさを笑顔にのせて「伊吹」と呼んだ。膝で這うようにして縁側に半身を出していた伊吹は、璃夕を見付けると顔をホッとしたような泣き出しそうに歪めて、笑った。
「泳いでたんですか?」
「うん」
「目が覚めたら、璃夕さんがいなくて……」
「不安になった?」
「ビックリしました。どこへ行ったんだろうって、心配になって」
「僕が誰かに攫われるとでも?」
あながち間違ってはいなかったが、園守のことを伊吹に言うつもりはなかった。伊吹はきょとりとして璃夕を見ると、こくりと小さく頷いた。璃夕は吹き出す。寝起きのせいか、伊吹はいつになく素直で子どもっぽい。
璃夕は濡れたままの浴衣も気にせず座敷に上がると、伊吹を布団の中へと戻した。
「もう寝なよ。ほら、今度はどこにもいかずに側にいてあげるから。それとも、寝るまで昔話でもしてやろうか?」
伊吹はちょっと考えて、首を振った。
「……璃夕さん、風邪ひきます」
「平気。人魚は普通つねに濡れてるものだよ。それに、今は夏だもの」
璃夕は、再び伊吹の手を握ってやった。あやすように揺らしながら、ぼんやりと自分を見上げている子どもに、笑みを返す。無垢な眼差しだった。今までこんなふうに、自分を見つめてくれた人はいなかったと、璃夕は思う。暗い海の中では、誰も璃夕の姿など見ないし、気にもかけない。
それが、この子どもはまるで子犬が懐くように、璃夕を必要としてくれる。それが、どれほど自分の心を喜ばせているのか、きっと伊吹は知りもしないのだろう。
伊吹はしばらくの間、また璃夕がどこかに行かないだろうかとを見張っていたが、少しして寝息を立て始めた。すっかり眠ったのを確認して、苦笑が漏れた。
本当に小さな子どもだ。
両親に甘えられなかった分の反動が、今来ているのだろうか。それはそれで、璃夕は構わないと思った。ただし、人魚の自分にそれができるかどうかが問題ではあったが。
愛おしさは、どこからこみ上げてくるのだろう。この子どもを守りたいと思う。慈しみたいと思う。だけど人ではないこの身に、いったい何が出来るだろうかとも、思うのだった。ただ側にいて話を聞き、微笑んでやることしか出来ない。最初はあれほど惹かれあった裕哉でさえ、結局は璃夕を捨てた。
人魚であることは己の誇りだ。しかし、人魚であることがこんなにもどかしいと思ったことはない。
ころりと伊吹が寝返りを打った。無意識だろうか、頬を璃夕の手に押しつけてくる。胸元から銀の鎖に繋がった鱗が零れ出た。枕元で小さく灯る橙色の明かりに照らされて、鱗はてろりと濡れているように光っていた。
まるで、泣いているようだと、璃夕は思った。
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