第27話
「僕は夜の海を服を着て泳ぐのが好きな、ちょっと一風変わった若者だよ。知り合いにキミに良く似た、裕哉って名前の男がいる。それだけ。おわかり?」
戯けたように両手をパーにして、顔の横まで上げてみせた。
園守は、疑わしそうな目をしていた。ぺろりと唇を舐めて、何かタイミングを計っているように見えた。
璃夕は嫌な予感がして、身構えた。それは璃夕の中にある、海の一族として生きる直感のようなものだった。安全な陸の上で長く生きる人間が進化の過程で退化させていったセンスは、いまだ人魚の中には強く残っている。
「人魚は海の魔力を秘めていると聞きます。その人魚の鱗には、魔力の片鱗が宿っていると」
ゆっくりと、彼は言った。
「あれを持っている人間は、海に、ひいては全ての水に守られているという話しです。私は、笠原くんがとても綺麗な鱗を持っているのを知っています。首からペンダントにして提げていました」
「それが?」
「あれは、人魚の鱗です」
璃夕は小馬鹿にするように唇を歪めた。
「伊吹がそんなことを?」
「……いえ、彼は否定しましたが」
璃夕は微笑んだ。出きるだけ優しく、哀れっぽく。
「ねぇ、先生。いい大人が、本当にこの世に人魚なんていると思ってるの? 海のどこかに、人魚が住んでいて王国を作っているとでも? 先生だって知っているでしょう? 海の底なんて夜の闇よりも暗い闇が溢れていて、魚のほとんどは視力を退化させている。水圧で奇形な形にならざるおえないようなところで、どうして半人半漁が生きていると思うのかなぁ? 常識的に考えて、おかしいよ。宇宙人がいるって言われた方が信じられる。小さな子どもでも人魚はおとぎ話の中の存在だって、きっと知ってるはずだよ。ましてや先生の口振りだと、まるで僕が人魚だって言ってるように聞こえるしね。でも、この通り、僕には立派な二本の脚がある」
璃夕は裾をめくり上げ、すらりと伸びた脚を太腿まで見せてやった。園守は、少しも諦めきれないという顔をしていた。が、その瞳は熱に浮かされたように煌めいて、璃夕を見た。粘るような陰湿な視線だった。
璃夕は抓んでいた浴衣を放して、脚を隠した。
「それじゃ、先生もいい加減家へ帰った方がいいよ。夜も遅いしね」
璃夕は園守の横を通り抜けようとした。が、すれ違う瞬間に、右腕を掴まれ、抵抗する間もなく男の胸の内側に抱き込まれてしまった。目を瞠れば、園守が食い入るような眼差しで、自分を見下ろしている。
小柄な璃夕にとっても、園守は決して大柄ではなかったが、それでもすっぽりと抱き込まれてしまう。身動いだが、強い力で押さえ込まれた。顎を掴まれ上向かされる。
「なんのつもり?」
璃夕は声を鋭くして、睨んだ。応える男の声は、恍惚に震えていた。
「あなたほど美しい人を、私は始めてみた」
「それはどーも。僕も先生みたいな礼儀知らずの人は初めてだよ」
体が密着しているせいで、男の体温や体臭まで伝わってきて、璃夕は息苦しさと不快感を覚えた。
園守は腕を璃夕の首に絡め、髪の毛を撫でた。
「あなたが人魚じゃないなんて、とうてい信じられない」
「あのさ、人魚を顔で選んでるのか? それじゃあ、好みの奴はみんな人魚だろうね」
園守は、璃夕の言った事がおかしかったのか、小さく吹き出して笑った。しかし、璃夕は笑う気にはなれなかった。
「僕は、キミが紳士であることを願うよ。今すぐ、腕を放してくれない?」
園守は璃夕を見て、瞳を細めると静かに首を振った。
「あなたは、人魚だ。私が探し求めていたものだ。間違いない。私が間違えるはずがない」
「人違いだ」
「信じられない」
堂々巡りだと、璃夕は思った。男は己の妄執に囚われている。証拠がどこにもなくとも、根拠などなくとも、一度思いこんだらもはや覆せないのだ。璃夕を人魚だと信じ込んでいる。あまつさえ、それが見当外れではなく当たっているのだから、始末におえない。
璃夕はうんざりしてきた。が、園守には伝わらない。男は夢見るような視線を注ぎながら、つうと璃夕の頬を愛おしむように撫でた。親指が唇の形をなぞるよう、動いた。やばいなと、璃夕は思った。
案の定、園守の顔が近づいてくる。
璃夕は身動きのとれない上半身を動かすことを諦め、変わりに思い切り右膝を蹴り上げた。もちろん、唇が触れ合う前に、である。痴漢行為に夢中になっていた男は油断していた。鳩尾に痛恨の一撃をくらい、うっとが呻き声あげよろめく。腕の力が弱まった隙に、璃夕は飛びすさって離れた。初めてにしては上手くいったと、璃夕は満足する。腹を押さえて蹲る園守に、冷ややかな一瞥と言葉をくれてやった。
「世界を自分中心で回すのは結構だけど、それを無理矢理他人に押しつけるのは迷惑だ。妄想なら一人きりで楽しんでろ」
一度も振り返ることなく、園守をそこに置き去りにした。
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