第26話

沖の方へ泳ぎ出て、海藻の波間で踊る。大きく尾を振って、勢いよく水を掻く。眠っていた小魚たちが、ときおり煩そうに体を震わせた。璃夕はくすくすと笑い、海底の砂の上に仰向けに寝そべった。口を開けて、空気を吹き出せば、ぽこぽこと白い泡が浮かび上がった。ゆらゆらと上へと上ってゆく。


 見上げた海面は、暗い。月の明るい夜なら、銀色の光がくるくると輪のように降り注いできて、綺麗な光景が見える。いつか、それを伊吹に見せてやりたいと、思った。


 もうずいぶんと夜の海しか見ていないことに、気付いた。人の目を警戒して、昼間の海に出られないせいだった。特に夏場は子どもが浜辺で遊んだり、海女が素潜りをしていることもある。


 昼の海は、世界が青一色でできていた。よくその青に身を委ねて、璃夕は海面ぎりぎりを泳ぎながら魚やイルカたちと駆けっこをして遊んだものだった。ばしゃばしゃと大袈裟に尾を振れば、いくつもの泡が出きる。泡の数を数えて競い合ったこともあった。


 一人でいることはとても退屈で、だから璃夕は一人遊びをいくつも考えだし、淋しい夜は深く深く夢の中で眠ることを覚えた。伊吹は、そんな自分に似ている。ただ、璃夕は正真正銘海の中で一人きりだったけれど、伊吹は多くの人々に囲まれながらも、心を通わせられる相手を見付けられず一人きりだったということだ。いったいどちらがよりつらい孤独だっただろうか。


 広い海にたった一人きりと、大勢の人間に囲まれた一人きり。


 考えたが、答えの出るようなものではなかった。璃夕は溜息をひとつ吐き出し、今度は岸へ向かって水を蹴った。


 海面から顔を出し、両足が砂の上に着くのを確認して、ゆっくりと足を一歩踏み出した。つきりと刺すような痛みが走り、顔を顰める。アンデルセンの人魚のように、歩くたびにナイフで切り刻まれるような激痛が走ることはないが、しかし歩くことは人魚である璃夕には苦痛の一つだった。身体の器官が人間と人魚とでは違いすぎるのだ。魔法でそれを補って一時的に形を作り替えたとしても、圧倒的な違和感や齟齬は、痛みとして璃夕を嘖んだ。


 それでも、歩くことが出来なければ陸の上では暮らせない。


 なんとか水が腰の辺りまで来るところまで歩き進んで、ふと顔を上げると、砂浜に男が一人立っていた。璃夕は微かに唇を歪めた。


(やっと出てきたか)


 海の中にすくりと立ち上がって、璃夕は男を睨み付けた。唇に薄く掃いた笑みをのせる。


「こんばんは」


 まさかいきなり声を掛けられるとは思っていなかったらしい男は、明らかに狼狽えた様子を見せた。璃夕はその場で立ち止まった。


「図書館からずっと僕と伊吹の後を着けていただろ」


 闇夜でも、光の中と変わることなくものを見る璃夕の瞳には、男の顔がはっきりと見えていた。男は少し躊躇った後、こちらへと近づいてきた。彼は海の中にたたずむ璃夕を、しげしげと見つめた。特に、水の中に隠れている腰から下が気になって仕方がないようだった。璃夕は笑った。


 わざと浴衣を着たまま泳いだのは、男の視線に気付いていたからだった。最初は木嶋の家の前でうろうろと中を窺っていたようだったが、璃夕が浜へ降りてくるとすぐにその後を着いてきた。その時点で、璃夕には男の目的が自分にあることを確信した。さすがに海の中までは男は着いて来れなかったようだが。


 璃夕が海の中へ入ったのは、待ち痺れた男がこうして姿を見せてくるのを期待したからだった。案の定男は波際までやってきて、波間の中に璃夕の姿がないかを捜していた。濡れそぼった真っ白な浴衣は、細い璃夕の体にぴたりと張り付いている。裾が花びらのように水の上に広がり、足をすっぽりと隠しきってしまっていた。


 男は、ぼそりと言った。


「服を着たまま泳ぐのは、感心しない。溺れたら大変だ」


 璃夕は吹き出した。この男は、璃夕が人魚であることを疑いながら、そんなことを言うのだ。ジョークだったら最高点を付けても良い。


「溺れないから平気だよ」


 しらっと璃夕が言えば、男はすかさず璃夕の足を見ようとした。しかし、璃夕はわざと海の中から出ない。


「伊吹と知り合いなんだろ?」


「あ、ええ。園守と言います。園守清晶。笠原くんが通っている学校の教師をしています」


「園守……」


 璃夕はその名前を口の中で転がした。馴染みのない響だった。「裕哉と苗字が違う」と璃夕は小さく呟いた。男はそれを聞きとめたのだろう、


「私の母は親戚の家へ養女して出されていたので苗字が違うんです。あなたは、叔父と知り合いなのですか?」


「どうして?」


「叔父が亡くなったのは、二十五年前です。あなたは、随分と若く見えるようですが」


「若作りなんだよ」


「小さな頃よく叔父が昔話してくれました。戦争中、海辺の町で美しい人魚に出逢ったと。回りにいた人たちは、叔父の与太話だと思っていたようでしたが、私は叔父が大好きだった。あの人が嘘を言うとは思えなかった。叔父は人魚の話を嘘だとは言わなかった。だから、あなたは―――」


「人魚だとでも?」


「あなたは叔父を知っている」


 断言するように、園守は言った。


「人魚は人よりもずっと長い時間を生きると言う」


「人違いだよ」


「叔父の名前を知っていた。私を叔父と間違えた」


「他人のそら似。裕哉なんて名前珍しくもないだろう?」


「……あなたの姿は、叔父が何度も語ってくれた人魚の姿によく似ています。特にその瞳が。今は夜なので見えないが、昼間あなたを見たとき驚きました。青とは違う。西洋の人々のような水色でもない。濃紺をほんの少し薄めたような色をしています。そんな瞳の色を、私は始めて見ました」


「キミがたんなる不勉強なだけなんじゃない? あんがい僕みたいな目をした奴だって、世界中にはごろごろいると思うよ」


 園守は、じっと璃夕を見つめた。璃夕は呆れた顔をして、肩を竦めた。髪の毛を掻き上げ、鬱陶しそうな仕草で、ゆっくりと歩きだした。


 水の位置がだんだん下がる。浮いていた浴衣の裾が、腰に、太腿に絡み付く。かまわず歩く。二本の足で水を蹴り上げ、砂浜に上がると、男は落胆と興奮の入り交じった判別の付かない顔で、璃夕の膝下へ食い入るように視線を送っていた。濡れそぼった浴衣の下から覗くのは、すらりと伸びた二本の脚だ。


 璃夕は微笑んだ。

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