第25話
布団の中で伊吹が寝ている。寝息がすうすうと小さく空気を揺らしていた。寝顔を覗き込みながら、璃夕は微笑む。あどけない。起きているときの彼は、冷めた眼差しと大人びた雰囲気をしているが、こうして目を閉じていれば年齢よりも少し幼く見える。手足ばかりが大きくなった、不器用な子どもだ。
夜半にはまだずいぶんと早かった。
おしゃべりをしている内に、伊吹がうとうととし始めたため、今日は泊まっていけばいいと璃夕が言ったのだ。いつもなら頑なに遠慮する伊吹が、今日ばかりは素直に頷いて郁春が用意した布団の中へともぐり込んだ。怪我をしている体で無理をさせたことや、精神的な不安や疲れが伊吹を素直にさせたのだろう。追い詰めたのは、自分だという自覚はある。
璃夕は溜息を付いて、額に掛かる彼の髪の毛を指でそっと梳いた。
眠る前、真っ白なシーツの中で、不安そうに自分を見上げてくる姿が子犬のようだった。何を不安がっているのか、璃夕にはわからなかった。たぶん、独りぼっちになるのが怖いのだろうと、思った。璃夕は傍らに座って、布団の中にあった伊吹の手を引っ張り出し握ってやった。最初戸惑った顔をしていたが、彼はすぐに安心したような息を吐き出し、目を閉じた。ほどなく寝息が聞こえてきた。
伊吹は子どものくせに他人に甘えるの不得手だ。それだけで、彼がどんな子ども時代を生きてきたのかわかる。独りぼっちになることに酷く怯え、そのくせ失う恐怖にも怯えているから、親しい人間を作ることもできないでいる。
矛盾の柵の中で、行き場のない孤独を持て余している。
璃夕の目に写る伊吹は、どんなに大人になっても物わかりの良い悟った顔をしていても、あの洞窟の中でどこにも居場所がないのだと淋しげに泣いていた子どものままに見える。あの場所から少しも成長できず大人になれず、蹲っている孤独な子どものまま……。
遠くで、鳥が高い声を上げて鳴いた。
そのとき何かが璃夕の神経に触れた。子鹿のようにぱっと頭を上げ、風の匂いを嗅ぐように頭を巡らせる。夜の闇が、波に乗って海から押し寄せている。木々の間から虫の音が、りんりんと鳴いていた。星も月もない夜だった。蜂蜜のように甘い闇が、一面に満ちて絡み付くようだ。
璃夕はすくりと立ち上がった。足音を忍ばせ縁側に出ると、障子を閉める。
虫の音と潮騒と、風が草木を揺らす音が一面に広がっている。ときおり雲の向こう側から、ごうごうと風の唸り声も聞こえてきた。陸の上には色々な音が溢れている。最初の頃は、これらの音に囲まれて眠るのは、至難の業だった。海の中の音はもっと静かに厳かに響いた。馴れない音達は、煩いほど璃夕の鼓膜を振るわせた。だから、夜の間だけ璃夕は海の中に戻るのだ。都合の良いことに、木嶋の家は目の前が海に面していたし、水辻の海は夜に船を出すものがほとんどいないので、人の視線を気にする必要がない。
素足のまま庭に降り立つと、門を開けて道へと出る。堤防の切れ目から砂浜へと降りた。誰もいない海辺は、寒々しい。闇が海の向こう側から押し寄せている気がした。
夜の濃い闇の中でも、璃夕の視界が損なわれることはない。
璃夕は目の前に広がる広大な海を見つめた。水は、この丸い地球上の全てに繋がっている。それは土だけではなく、この世の命すべてにも繋がっているのだ。だから、人魚達はなによりも己の一族を、海に住まう一族であることに高い誇りを持っていた。鳥のように自由に空を飛ぶ翼がなくとも、人間達のように多くの命をいくつも産み落とし育み、知恵を持って大地の上を王者のように君臨することが出来なくとも、人魚達は母なる女神の海に愛されているということが、何ものにも勝る誇りだった。
だから、彼らは永遠を海で過ごすのだ。決して海から出ることなく、海で生まれ海で死んでゆく。それが人魚の理だ。
璃夕も、ずっと長いことこの海で暮らしてきた。人間が『水辻』などという名を付ける遙か以前から、この海は人魚の物であり、璃夕のものだった。
しかし、この海の水は人魚の肌にも凍えるように冷たく、荒々しい。尖った岩谷が立ち並び、水の青は凍てついて淋しく、魚たちの気性も海に倣ったように荒かった。ついに多くの人魚達がここよりももっと住み良い暖かな海を目指して旅に出てしまった。長老達の話しでは、南の海は暖かく穏やかな流れをしており、色とりどりの気のよい魚たちが暮らしているのだという。真珠の粒のような白砂が敷き詰まった珊瑚の輪の巡る海は、どれほど美しいことだろう。空と海が手を結び会うように混じり合い、朝夕の太陽が見せる幻影は美しく海の色を変えるのだという。
璃夕は、一人きりでこの海に残った。親しかった友は、もう誰一人ない。彼らの顔を思い出すこともできなくなってしまった。数え切れぬほど夜と昼を過ごしたが、やはり璃夕は一人きりだったし、海の水は冷たく凍えていた。
海の泡はただ静かに目の前を通り過ぎるだけだ。魚たちは愛想もなくくるくると泳ぎ過ぎてしまう。眠るような冷たい微睡みの中で、璃夕はときどきどうして自分はこの海に居続けているのだろうと考えた。答えは見つからないまま、長い時間だけが流れてゆく。人魚は人とは違い、遙かに長い時を老いることなく生きてゆくのだ。もしかすれば、永遠。海の泡として消えるその瞬間まで答えは見付けられぬまま、一人きりでこの海で終わってゆくのかもしれない。
孤独感と淋しさを癒してくれるほどこの海は暖かくはない。璃夕はただ一人耐えるだけだった。
ぴょこんと魚が跳ねて、夜の波に小さな飛沫を上げた。
璃夕は、ぼんやりとそれを眺める。
いつか海で助けた子どもは、少し見ない間に見上げるほど大きな青年に成長していて驚いた。自分の中での彼はいつまでも幼い子どもで自分に向かって手を差し伸ばしながら「怖いよ」と泣きべそをかいている姿だった。だけれど、触れた皮膚は暖かく、自分を見つめる黒い瞳は真っ直ぐで真摯だった。
璃夕が内心では戸惑うほど大きくなってしまった子どもは、なのにあの頃と少しも変わらぬ真っ直ぐな心で璃夕に笑いかけてくる。
「ありがとう」と。
璃夕の唇に小さな笑みが浮かんだ。頭を上げて、水平線を見やる。
裕哉に出逢ったときでさえ、璃夕は決して陸へ上がることはなかった。差し出された手を取らなかった。陸へ上がることなど考えたこともなかった。だけれど、今の自分はどうだろう。二本の脚を手に入れ、人間の振りをして生活している。誇り高い海の仲間達が知ったら、さぞや嘆いたことだろうが、その仲間達も璃夕の現状を知ることなど出来はしない。彼らは、遠い南の海の果てにいるのだから。
今の璃夕にとっては、それほどに伊吹の存在が大きい。
足を踏み出すたび、砂がきゅうきゅうと泣き声を上げた。波際まで近づき、冷たい水に足を浸す。愛おしいような切ないような気持ちが溢れた。
着ていた浴衣も脱がず、ずんずんと波をかいて歩きだした。肌を包む濡れた感触が心地よい。みるまに腰が浸かった。璃夕は、軽く足を蹴ると頭から海の中へと飛び込んだ。
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