ビーンバッグから

伊藤充季

ビーンバッグから


 おれにはわからない、とビーンバッグは思った。

《おれの腹のなかには、大粒の豆がたくさんつまっている。豆をつめたのはこの家のばあさんだ。ばあさんが、このあいだ生まれた赤ん坊のために遊び道具を、と言っておれを作ったらしい。なんという余計なお世話だ! 赤ん坊はおれをつかんで投げたり、舐めたり、ひどいときは口に放り込んで噛んだりしやがる。いいか? おれは本来、「お手玉」という遊びに使われるべき道具なんだ。それはおまえのばあさんだって、おまえに説明していたじゃないか。「ほら、おまえのためにビーンバッグを作ったわ。これはね、お手玉という遊びに使うの。こうやって遊ぶの」とそう言って、ばあさんは両の手を使って器用に、おれを何度も何度も転がしたじゃないか。それをおまえは見ていた。見ていたじゃないか。それなのに、おまえときたら、おれを舐めたり噛んだり投げたり。まったく、うんざりする。》

 ビーンバッグが生まれてから二週間が経とうとしていた。ただ、そんなことはビーンバッグには知る由もない。二週間というのは人間の時間の尺度でいうところの二週間であって、ビーンバッグにとってはどうでもいい文字列に過ぎない。しかし、時間が経っているということそれ自体はビーンバッグにとっても変わりがない事実であった。

《赤ん坊は、またおれを口のなかに入れて何度も噛みやがった。おかげでおれは、ぼろぼろだ。ばあさんが作ったばかりのころはあんなに立派だったおれのからだは、おまえのおかげでもうぼろぼろなんだ。まったくどうしてくれる? おまえはおれをつかってお手玉をすることすらしない。ばあさんも赤ん坊に注意することすらしない。それどころか、「お前にまだお手玉は早かったかしら」とか言って、笑っていやがる。いつも、いつもおれはぼろぼろになっていくばかりだ。こんな調子でぼろぼろになっていったら、おれは近いうちに体をとどめていられなくなるだろう。するとおれは、いったいどうなるのだろうか。》

 ビーンバッグは自分では動くことができなかった。たとえほんの一ミリほどの短い距離の移動でも、人間の力をかりなければできないことだった。それをビーンバッグは腹立たしく思っていたが、しようがないことだった。しかも、ビーンバッグを動かしてくれるのは基本的に赤ん坊だけだった。赤ん坊は気の向いたときにビーンバッグを持ち上げて、動かすのだ。それまでビーンバッグはただ横たわってじっとしているよりほかになかった。だから、ビーンバックはいつも周りをじっと見て、人間たちの声をじっと聞いていた。そのほかにすることも、できることもなかったのである。

 しばらくするとビーンバッグは時間の概念を理解した。といっても、理解したのはごく簡単な部分だけ――窓の外が明るくなって、暗くなって、それからまた明るくなれば一日が経っている――で、時計の読み方などはまったく理解できなかった。

 一日、という概念を理解したとき、ビーンバッグはすばらしく明るい気分になった。だが、そんな気分も長続きはしなかった。いくら周りを丹念に見まわしても、いくら人間たちの会話に耳を澄ましても、一日という概念以外の難しい概念は何もかも理解できないことに気がついたのである。そのとき、ビーンバッグはやはり「おれにはわからない」と思った。

《わからない。おれにはわからない。どうしてこんなにもわからないのだろう? 人間たちはいつも全身から、おれにはすべてがわかっているのだという態度をまき散らしていやがる。腹立たしい。おれにはなにもわからないというのに。》

 ビーンバッグには自分が生まれてきた理由がまったくわからなかった。だが、どうやって生まれてきたのかは、客観的に観察してみれば完全に自明であった。ばあさんがかわいい赤ん坊のために遊び道具をこしらえることにして、大粒の豆をいくつも集めてそれを布でくるんでぬいつけた。それで生まれたのがビーンバッグなのだ。

 ビーンバッグにはふしぎに思っていることがあった。

 それは、なぜ人間たちはあんなにもぬるぬるした気持ちの悪い肉の中で生命活動を行っているのか? という疑問だった。

 ビーンバッグの体は豆と布からできていた。そしてそれらのなかには、あのいまわしい人間たちを構成するような、ぬるぬるした気持ちの悪い肉はどこにも見当たらないのだった。ビーンバッグはそれをほこらしいことだと思っていた。しかし、いくらそのことをほこりに思っても、人間たちがなぜあのようなぬるぬるした気持ちの悪い肉の中で生きているのかはわからなかったし、自分がなぜほこらしい気分になるのかもわからなかった。

 いつも赤ん坊の手にむんずとつかまれるとき、ビーンバッグはこう思う――

《そのぬるぬるした肉の手でおれをさわるんじゃねえ! おれの立派なからだに肉がついてしまうじゃないか。》

 そう思いながらも、ビーンバッグは自分が思っていることの意味がまったくわかっていなかった。人間の体はぬるぬるした気持ち悪い肉につつまれている。それはまちがいない。まちがいないが、だからといってつかまれたくらいで肉がつくなんてことがあるわけがない。ビーンバッグはそれをいちおう理解してはいた――

《いや、おれは本当に理解しているのだろうか? そもそも、おれはいったい理解しているのだろう?》 

 ビーンバッグにはそれもわからなかった。


 それからしばらくの間、ビーンバッグは変わらぬ日々を過ごした。

 ある日、赤ん坊がビーンバッグをいつものように持ち上げて口にいれようとした。

《またか。また、おれは口にいれられるのか。》

 そして、ビーンバッグをくるんでいる布が赤ん坊の歯に当たったとき――中身が、大粒の豆がぽろぽろとこぼれだした。長い間、ぼろぼろにされ続けたビーンバッグの姿をとどめていた布と、布をぬいつけていた糸がとうとうだめになってしまったのであった。

《なんだ? はじめての感覚だ。何が起こっている。ここは、暗くてよく見えない! くそ、早く口から出してくれ。》

 そうしている間にも、豆はぽろぽろと次から次にこぼれだす。その時、ちょうど赤ん坊のところにばあさんがやってきて、短く悲鳴を上げた。

《ばあさんが何か言ってやがるな。「きゃあ」なんて、おかしな声をあげやがって。いったい、何がどうしたっていうんだ。》

 次の瞬間には、ビーンバッグはばあさんの手に引きずられて赤ん坊の口のなかから脱出していた。お気に入りのおもちゃをとられて赤ん坊は泣きだした。ばあさんは赤ん坊をあやすため、ビーンバッグになどかまっていられなかった。そのへんにぽいと捨てると、すぐに赤ん坊を抱きしめてなにやら小声でぶつぶつと赤ん坊をなぐさめ始めた。

 ビーンバッグは近くにあった棚の下にすべり込んで、そしてそのまま、長い間放っておかれることになった。赤ん坊はしばらくの間ビーンバッグのことを探したが、とうとう見つからず、やがてばあさんが別のおもちゃをこしらえてそちらに夢中になった。ばあさんはビーンバッグのことを探そうともしなかった。


《――いったい何日目になるだろう。ばあさんにここにぶち込まれてから、何日がたったのだろう。おれには見当がつかない。きっと、人間どもならばすぐにわかるのだろうが。それにしても、あのばあさん。おれを作って、そしてこんな薄暗いところにぶち込んで、さらに放っておくだと? ひどい。こんなひどいことがあるだろうか。》


《赤ん坊は新しいおもちゃを手に入れてから、すっかりそれを気に入ってしまった。もうおれのことを探すことなど、しないだろう。もうおれは、舐められたり投げられたり噛まれたりすることはない。ここにずっといられるだろう。ここにずっと――では、おれはこれからどうなるんだ?》


《もうどうなっているのか、まったくおれにはわからない。おれのまわりは、なんだかもやもやしたものに囲まれ始めた。薄暗い。外の景色もわずかしか見えない。》


《おれにはわからない。》


 部屋が次第に明るくなってきて、ビーンバッグは一日が経ったことに気づいた。相も変わらずに、何もすることもなく、おまけに何もできないので、棚の下から部屋のなかをじっと眺めていた。

 突然、上から赤ん坊が落ちてきた。そして床に激突して、動かなくなった。赤ん坊は階段から足を踏みはずして落ちてきたのだが、ビーンバッグはそんなこと知る由もなかった。

《赤ん坊が突然落ちてきた。赤ん坊が、動かなくなった。》

 しばらくすると、ばあさんがやってきて「あら」とひとこと言った。それから部屋中が大騒ぎになった。救急隊員や、警察や、色々な人が部屋に出たり入ったりした。電話のベルも鳴りっぱなしだった。それを見ながら、ビーンバッグは混乱しつづけていた。

《人間たちの数が増えている。おかしい。こんなことは初めてだ。そして、赤ん坊はどうなったのだろう。動かなくなって、それからどうなったのだろう。もしかしたら、もう赤ん坊が動くことはないのかもしれない。おれももうずっと動いていない。おれはもう動かないのだろうか。なら、どうしておれはここにいるのだろう。》


 さらに長い時間が経って、ばあさんが大掃除をしているとき、例の棚の下を掃除するためにそこにモップを突っ込んで引っぱり出すと、たくさんの埃と一緒にビーンバッグが転がり出てきた。豆を散らばしながら出てきたビーンバッグを見てばあさんは一瞬おどろいたが、すぐにいまいましげな表情を浮かべると、ビーンバッグをゴミ袋にぽいと投げ入れてしまった。

《ひさしぶりに動いた。おれはまた動くことができたのだ。いや、だから何だというんだ。ばあさん、おれをどうするんだ。狭いところから出してくれたのに、またおれは狭いところに閉じ込められるのか。おれはこれからどうなるんだ。もうほんとうに動けなくなるのか。これからおれはどうなるんだ、ばあさん。》

 掃除を終えると、ばあさんはゴミ袋をひとつずつ家の裏庭にある焼却炉までもっていきはじめた。ゴミ袋は全部で九つあって、そのうちの六つ目にビーンバッグは入っていた。やがて六つ目のゴミ袋が運びだされた。それは、ビーンバッグが初めて家の外に出た瞬間だったが、同時にこの世の見納めでもあった。

《ばあさんがおれをどこかに運んでいるようだ。まぶしい。こんなまぶしいところがあるものなのか。――周りが動かなくなった。おれはどうやらどこかに置かれたらしい。》

 やがてすべてのゴミ袋をはこび終えたばあさんはゴミを燃やし始めた。焼却炉の煙突から煙がもくもくと出て、ばあさんは満足そうな顔をして家のなかに入っていった。

《上のほうからガシャンという音がして、真っ暗になった。さっきまであんなにまぶしかったのに、もう真っ暗だ。どういうことだろう。まだ暗くなる時間ではないはずだ。いや、なんだか明るくなってきた。もう一日が経ったのだろうか。早すぎる。おれがおかしくなったのか、世界がおかしくなったのか、わからない。だが、どちらにせよ、何かがおかしい。ばあさんはどこだ。赤ん坊は――もう動かなくなった時から見てないが――どこにいるんだ。おれはここにいる。おれはどうなるんだ。》


《次第に、世界がゆがんでいるような気がしてきた。もとから歪んでいたのかもしれない。》


《おれはこぼれおちている。だが、おれ自体はまだここにいる。》


《つまり、どういうことなのだろう。》


《おれにはわからない。》





 


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ビーンバッグから 伊藤充季 @itoh_mitsuki

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