五線譜

染井雪乃

水無月みなつき君、ちょっといいかな」

 昼休みの教室の喧騒の中でも、彼女の声はよく通った。水無月は、その白とも銀とも取れる前髪の隙間から三人の敵を観察した。

 一月後に行われる合唱の指揮者の彼女、それから伴奏者の彼、そして、クラス委員長の彼。教室の眩しさゆえに目を細めてしまった水無月の観察は、睨みつけたと取られたようで、指揮者の彼女は怒りを滲ませた。

「何もよくない」

 水無月は断ったが、「別に私達は先生呼んできて話したっていいんだけど」と指揮者の彼女に脅される形で、席を立った。

 教師を呼ばれて家に連絡があれば、待っているのは仕置きだろう。水無月の母親は、水無月を憎んでいる。自分を殴る口実を母親に与えたくはなかった。水無月の母親は何でも口実にするので、回避不可能な災害のようなものではあるが、それでも少しでもそういったリスクは減らしたかった。


 あまり使われない東階段の踊り場で、指揮者の彼女が口火を切った。伴奏者の彼は深刻そうにしていたが、クラス委員長はやはり聡明なのか、気まずそうにしていた。

「水無月君、合唱のとき、歌ってないよね」

「……あ?」

 思った以上に低い声が出た。今度は容赦なく睨みつけ、伸び始めた身長で指揮者の彼女を見下ろした。

 指揮者の彼女は怯むことなく続けた。

「口パクってね、指揮してるとよくわかるんだよ。あ、やる気ないなとか、音外れてたなとか、全部わかる。ねえ水無月君、私達一生懸命練習してきてるじゃない。最初は男子やる気なかったけど、やる気出してくれるようにもなったし」

 指揮者の彼女の言葉を聞き流しながら、水無月は懇願という言葉を思い浮かべていた。

 この女、世界で一番自分があわれだと思っていやがる。この春に入学したばかりなのに薄汚れた制服も、目が悪いにも関わらず眼鏡も拡大鏡も持っていないことも、この女にはわからないのだろう。だから、水無月に「口パクやめようよ」なんてことが言える。つまりは、浅慮な馬鹿なのだ。

「……ところで、おまえ、名前何だっけ」

 水無月はぼそりと呟く。

「俺、委員長が水崎だってことしかわからねえな、テストの順位表、最後まで見ないからさ」

 水無月は前期中間試験における学年トップである。その水無月からこう言われれば、誰も反論はできない。

 指揮者の彼女は傷ついたことを表情で分かりやすく示し、伴奏者の彼はそれに同情的な視線を向けた。水崎が一歩前に出る。

「水無月、おまえ、歌えないんだろう」

 そういえば、水崎は同じ小学校から来ていたなと思い至る。

「……歌わないではなく、歌えない。それは、事実だ」

 水無月が水崎の言葉を肯定すると、指揮者の彼女と伴奏者の彼が同時に言う。

「だったら練習しなよ」

 その言葉に水無月は完全に三人を敵認定した。

「おまえら、機会の平等って知ってるか? 何で男女雇用機会均等法なんてものが必要なのか、考えてみたことは? 答えはな、機会は平等じゃないからだ」

 水崎は、やはりこうなったかという顔をしている。予期していたなら他の二人を止めてほしかった。

「家でCDを聴くことができるか、そもそも音楽を学校以外で習わせてもらえたか、そこで既に機会は平等じゃない。伴奏や指揮ができるおまえらは、既に恵まれている。そんなことにも気づかず、自分より歌えない人間を責める。さぞ気分がいいだろうな。クソの役にも立たないご高説どうも、上から目線で最高に腹が立ったぜ」

 はっと吐き捨てて、水無月は長い前髪の中から二人を睨みつける。

「音楽やりたくてやってただけなのに……」

 やりたくて、やれることが既に特権なのだとなぜ気づかないのか。水無月は呆れ果てていた。

「じゃあ、俺達が水無月君の練習見るのはどう……」

 伴奏者の彼の提案は、言い終わる前に水無月の眼力で黙らされた。

 水崎が、はあっと息をついた。

「俺達は、水無月が歌えないとか口パクしてるとか、そんなことは何も、知らない。いいな?」

「よくないよ! これじゃ皆の合唱じゃなくなっちゃう……」

 指揮者の彼女は反論しようとしたが、それを手で遮り、水崎は一言告げた。

「じゃあおまえ、水無月の練習環境整えられるわけ?」

 ひゅっと、指揮者の彼女が息をのんだ。

 それが、水崎の勝利の瞬間だった。


 ひんやりした階段の踊り場を後にするとき、水無月は水崎に小さく礼を言った。ありがとう、水崎、とだけ、伝えた。

 おまえにできる範囲で俺の負担を減らしてくれて、でも原因からは助けてくれなくて、ありがとう。思っても、言わなかった。


 その夜、水無月は合唱の楽譜を破り捨てた。


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五線譜 染井雪乃 @yukino_somei

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