五線譜
染井雪乃
※
「
昼休みの教室の喧騒の中でも、彼女の声はよく通った。水無月は、その白とも銀とも取れる前髪の隙間から三人の敵を観察した。
一月後に行われる合唱の指揮者の彼女、それから伴奏者の彼、そして、クラス委員長の彼。教室の眩しさゆえに目を細めてしまった水無月の観察は、睨みつけたと取られたようで、指揮者の彼女は怒りを滲ませた。
「何もよくない」
水無月は断ったが、「別に私達は先生呼んできて話したっていいんだけど」と指揮者の彼女に脅される形で、席を立った。
教師を呼ばれて家に連絡があれば、待っているのは仕置きだろう。水無月の母親は、水無月を憎んでいる。自分を殴る口実を母親に与えたくはなかった。水無月の母親は何でも口実にするので、回避不可能な災害のようなものではあるが、それでも少しでもそういったリスクは減らしたかった。
あまり使われない東階段の踊り場で、指揮者の彼女が口火を切った。伴奏者の彼は深刻そうにしていたが、クラス委員長はやはり聡明なのか、気まずそうにしていた。
「水無月君、合唱のとき、歌ってないよね」
「……あ?」
思った以上に低い声が出た。今度は容赦なく睨みつけ、伸び始めた身長で指揮者の彼女を見下ろした。
指揮者の彼女は怯むことなく続けた。
「口パクってね、指揮してるとよくわかるんだよ。あ、やる気ないなとか、音外れてたなとか、全部わかる。ねえ水無月君、私達一生懸命練習してきてるじゃない。最初は男子やる気なかったけど、やる気出してくれるようにもなったし」
指揮者の彼女の言葉を聞き流しながら、水無月は懇願という言葉を思い浮かべていた。
この女、世界で一番自分があわれだと思っていやがる。この春に入学したばかりなのに薄汚れた制服も、目が悪いにも関わらず眼鏡も拡大鏡も持っていないことも、この女にはわからないのだろう。だから、水無月に「口パクやめようよ」なんてことが言える。つまりは、浅慮な馬鹿なのだ。
「……ところで、おまえ、名前何だっけ」
水無月はぼそりと呟く。
「俺、委員長が水崎だってことしかわからねえな、テストの順位表、最後まで見ないからさ」
水無月は前期中間試験における学年トップである。その水無月からこう言われれば、誰も反論はできない。
指揮者の彼女は傷ついたことを表情で分かりやすく示し、伴奏者の彼はそれに同情的な視線を向けた。水崎が一歩前に出る。
「水無月、おまえ、歌えないんだろう」
そういえば、水崎は同じ小学校から来ていたなと思い至る。
「……歌わないではなく、歌えない。それは、事実だ」
水無月が水崎の言葉を肯定すると、指揮者の彼女と伴奏者の彼が同時に言う。
「だったら練習しなよ」
その言葉に水無月は完全に三人を敵認定した。
「おまえら、機会の平等って知ってるか? 何で男女雇用機会均等法なんてものが必要なのか、考えてみたことは? 答えはな、機会は平等じゃないからだ」
水崎は、やはりこうなったかという顔をしている。予期していたなら他の二人を止めてほしかった。
「家でCDを聴くことができるか、そもそも音楽を学校以外で習わせてもらえたか、そこで既に機会は平等じゃない。伴奏や指揮ができるおまえらは、既に恵まれている。そんなことにも気づかず、自分より歌えない人間を責める。さぞ気分がいいだろうな。クソの役にも立たないご高説どうも、上から目線で最高に腹が立ったぜ」
はっと吐き捨てて、水無月は長い前髪の中から二人を睨みつける。
「音楽やりたくてやってただけなのに……」
やりたくて、やれることが既に特権なのだとなぜ気づかないのか。水無月は呆れ果てていた。
「じゃあ、俺達が水無月君の練習見るのはどう……」
伴奏者の彼の提案は、言い終わる前に水無月の眼力で黙らされた。
水崎が、はあっと息をついた。
「俺達は、水無月が歌えないとか口パクしてるとか、そんなことは何も、知らない。いいな?」
「よくないよ! これじゃ皆の合唱じゃなくなっちゃう……」
指揮者の彼女は反論しようとしたが、それを手で遮り、水崎は一言告げた。
「じゃあおまえ、水無月の練習環境整えられるわけ?」
ひゅっと、指揮者の彼女が息をのんだ。
それが、水崎の勝利の瞬間だった。
ひんやりした階段の踊り場を後にするとき、水無月は水崎に小さく礼を言った。ありがとう、水崎、とだけ、伝えた。
おまえにできる範囲で俺の負担を減らしてくれて、でも原因からは助けてくれなくて、ありがとう。思っても、言わなかった。
その夜、水無月は合唱の楽譜を破り捨てた。
五線譜 染井雪乃 @yukino_somei
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