「東京A子」
Aさん(28) K県住在
私がまだ高校生だった頃の話です。
当時の自分は両親と不仲で、また周りの人間の品のなさ、田舎の娯楽のなさに辟易していました。我慢できなくなった私はお年玉となけなしのバイト代を手に、親に内緒で深夜バスに乗り東京へと向かったのです。ティーンエイジャーによくある類の逃避行ですよね。朝日がオフィス街を照らし、早朝の冷たく無機質な二月の冷気が鼻孔を刺すように感じました。ロータリーを出て最寄りの駅に向かうと、休日の早朝だというのに先を急ぐ人々であふれていました。私は頻繁に連絡をとっていたネット上の友人に「いま東京駅に着きました」とメッセージを送ると、「了解、すぐに向かうね」と返信が返ってきました。私はこの家出の計画を彼女にだけ前々から相談していたのです。彼女は『オサナ』さんという都内の大学に通う女子大生で、彼女が好きな漫画をSNSで紹介しているのに私が反応したのが知り合ったきっかけでした。待ち合せはオフィス街にある落ち着いた雰囲気の喫茶店でした。
待ち合わせの時間よりも随分前に着いた私は、その喫茶店の前を行ったり来たり。恥ずかしいことに、一人で入る勇気が出なかったのです。私は歩道に突き出した室外機の陰に座り込みました。まだできて間もないスカイツリーが、並んだビルの合間から遠くに見えてその大きさに驚いたのを覚えています。
しばらくして『オサナ』さんから、「もうすぐつくよ」と連絡がありました。わたしは喫茶店の前に戻り、彼女を待ちます。
すると「むぎちゃん」とわたしのSNSでのニックネームが聞こえました。
振り向いたと同時に私は息をのみました。
そこにいたのは雑誌のポートレートから出てきたような、美しい女性でした。
学校でもてはやされている子なんかよりもずっと。
「『オサナ』さんですか?」と私が尋ねると、彼女は「初めて会うけど、すぐにむぎちゃんだってわかったよ」と柔らかい表情で答えてくれました。
『オサナ』さんにエスコートされ喫茶店へと入り、私はレモンティーを、彼女はブレンドコーヒーを注文しました。
「一人でくるなんてすごいね」「初めての東京はどう?」「どこか行きたいところは?」
緊張が顔に出ていたのでしょう。彼女はわたしに気遣って、話題をふり、楽しそうに話を聞いてくれました。そのおかげか、運ばれてきた、甘さの控えめなレモンティーを飲み終わる頃には、私もすっかり打ち解けて、「渋谷にできたヒカリエに行きたい」「新しいピアスを買いたい」「バイト先にいるおばさんたちは最悪」といつものSNSでのやり取りができるようになっていました。
喫茶店を出て街を歩くと、すれ違う人がそれとなしに『オサナ』さんに目を向けるのが分かりました。そんな人と並んで歩くと、さっきまで感じていた都会の居心地の悪さは無くなっていました。
その後はすっかり気分も良くなり、あちこちを二人で周りました。東京ってなんて楽しいのだろうとその時は思いました。
しかし、日が傾くにつれて、家族に内緒にしてきたこと、財布の中のお金が心許ない事もあって、だんだんと、嫌だけど帰らないとと思うようになりました。
「むぎちゃん、今日はどこかに泊まるの?」
『オサナ』さんそう聞かれて、私は「実は」と、もうすぐ帰らなくてはならないことを彼女に伝えました。
それを聞いた彼女は、「せっかくきたんだから私の家に泊まって帰るのは明日にしたら」と言いました。
初めは迷惑をかけたくないと思い断ったのですが、「一人暮らしで寂しいから。むぎちゃんともっと話したい」と言われて、とても、とても嬉しくなって、結局、私は『オサナ』さんの家に泊めてもらうことにしました。
彼女の家は、大きな坂のある、閑静な住宅街の3階建てのアパートでした。少し年季は入っていましたが、彼女の部屋に入ると、そのイメージ通り、真っ白な壁紙、洗練された家具、心を癒すようなお香の薫り、そんな私の憧れそのものといった感じでした。
夜は『オサナ』さんが振る舞ってくれた手料理を食べて、朝から歩きっぱなしで疲れた私に合わせてか、随分と早い時間に就寝することにしてくれました。
幸いベッドには余裕があったので、私と『オサナ』さんは並んで寝転がり、しばらくはまた、たわいのない話をしていましたが、すぐに私の意識はすっかり深いところへと落ちていきました。
私が目を覚ましたのは、誰かの啜り泣く声が聞こえたからでした。顔を上げた目線の先では、間接照明が、暗闇の中で立ち尽くした『オサナ』さんの、不気味なほど青白い躰をくっきりと浮かび上がらせていました。
彼女は下着姿で、何度も、何度も、何度も、何度も、首元を掻きむしり、嗚咽を漏らしています。
「うわ」と私は声を漏らしました。
その声に気がついた彼女はこちらを振り向き、こちらに近づいてきます。私はあまりの異様さにぽかんとしたまま、「ああ」という声と呼べないような呻き声をあげて固まってしまいました。
彼女の目は落ち窪み、あれほど魅力的だった柔らかい笑顔はかけらも見当たりませんでした。そして、私の顔を覗き込むと、「起こしちゃったね」と冷たい表情で呟きました。そして私の頬に手を添えました。その後の言葉は今でもずっと強く記憶に残ったいます。
「むぎちゃんはずっとここに住めばいいと思うのだってむぎちゃんは私の『 』の生まれ変わりなんだからごめんね痛かったよねあの人がどうしてもおろせって言うからでも、こうして会いにきてくれたもんね」
背筋にとても冷たいものを感じました。私は反射的に彼女を突き飛ばし、身一つ、裸足のまま部屋を飛び出しました。アパートの敷地を抜け、坂を下りました。氷のようなコンクリートの冷たさを耐え、とにかく走り続けました。
そうして肺が破れそうになる程走った後、地面にへたり込み、正気に戻った私は、幸運にも携帯をポケットに入れたままだったことに気がつき、すがるような気持ちで、母親に電話をしました。
深夜にも関わらず高速を使い私を迎えにきてくれた両親に、私は抱きついて、呆れるほど泣きました。
結局、『オサナ』さんのアパートがあった場所は思い出せず、何よりも二度と彼女に会いたいと思えなかった私は、両親の運転する車の後部座席でぐったりと横になりながら、東京を去りました。
私は数年後、地元で出会った夫と結婚し、今では2人の子供との4人家族でなんてことはない、幸せな暮らしを送っています。ただ、時々あの日のことを思い出します。当時は恐ろしかっただけの記憶ですが、母親になった今、あの言葉について考えてしまうのです。彼女は正気ではありませんでした。彼女はいまだあの街で、失ったものを探し彷徨い続けているのだろうかと。そして、私は、私の膝の上で眠るこの子達を失った時、果たして正気でいられるのだろうかと。
掌編ごった煮 七つ味 @nvs6exvs42n
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