30

「ーー」


 呪文を唱え始めたリヒトの全身を、青色の光が包み込む。彼の足元に生まれた魔法陣から、同色の光の帯が蔦のように対象がいる地点まで伸びていった。


「『氷結の慈愛』!!」


 光が弾けるように、飛沫を上げるように跳ねる。それと同時に、魔法陣から伸びた帯がフェンリルへとまとわりつき、眩い光を放ちながら吸収されていく。

 フェンリルは一層大きな咆哮を上げ、力で拮抗していた魔物を組み伏せる。そして、動けなくなった魔物を目掛けて氷のブレスを吐き出した。瞬く間に、魔物の全身は凍りついていく。


「フェンリル! 魔物の胸にあるコアを!」


 リヒトの指示に答えるように、フェンリルは大きく口を開け、氷ごと魔物の胸を噛み砕いた。血飛沫が舞い上がり、魔物が苦悶の声を上げる。フェンリルは噛みつくのを止めない。そして、魔物が動かなくーー。


「あっ……?」


 突然。フェンリルの姿が、空気に溶けるように掻き消えて。リヒトは、思わず間抜けな声を漏らしてしまう。


「……!」


 次いで、全身から力が抜けていく。今度は一瞬では済まず、そのまま倒れてしまった。


「ま、魔力……が」


 魔力が枯渇し、フェンリルを顕現させ続けることが出来なかったことに気が付く。もちろん、事態はそれだけでは済まないことも。


「……フーッ。フー……」

「ひっ……!」


 ズルズルと、血まみれの肉体を引きずってーー死にかけの魔物が、絶好の獲物へと歩み寄っている。目の前にいる人間を、ぶ厚い爪で切り裂き。細かく生え揃った牙で噛み砕いてやろうと、舌なめずりをしている。

 せめて道連れにしてやろうという気概か、それともただの本能的な殺意なのか。リヒトにとっては、そのような点は重要ではない。


(こ、ころ、され。……殺され……)


 起き上がれる力はない癖に、身体はガタガタと震え出す。怖い。怖い。怖い……!

 目を閉じてしまいたい。でも、それで突然やってくる苦痛を想像するのも恐ろしくて。リヒトは目を見開いたまま、ただ震えていた。


(こんなの、嫌だよ。やだ。助けて。助けて、)


 口が、無意識に名を紡ぐ。


「兄さん……!」


 ーーそう、言った時。倒れているリヒトの視界に、自分が左耳に付けているイヤリングが映った。結晶の形をしたそれは、兄がリヒトの誕生日にと渡してくれたものだ。


『リヒト』


 優しく、笑って。頭を撫でてくれて。


『大丈夫だ。リヒトならきっと、立派な魔導士になれる』


 そう、言ってくれて。


『ーー出来損ない。……お前なんか』


 弟じゃない、と。冷たい目で、そう吐き捨てて。


(僕には、わからない。兄さんのことが、分からないよ……!)


 ただ、それでも。兄の顔と言葉と共に、別の人物の言葉が脳裏に蘇った。


『……この先に何が有るのかを、見てからだ』


 出会ったばかりの、何を考えているのか、まだよく分からない奴の。


『お前の兄が、何かしたのか、していないのか。……先を見てから、判断するべきだろう』


 慰めているのかそうでないのか、やっぱり分からないーーけれど、ほんの少しだけ、嬉しかった言葉で。


「い、や。ぁ、あ」

「……!」


 リヒトの意識が、急速に現実へと還ってくる。ーーそうだ。自分がここで死んだら、ミナはどうなる? 檻の鍵は壊してしまった。彼女まで魔物に殺されてしまうではないか。


「ぅ……くっ、う……!」


 その可能性に気が付いた時。リヒトは両手を地面に当てて、渾身の力を込めてーー起き上がった。


(……そうだ)


 まだ、死ねない。少女を助ける為に。強くなる為に。兄を捜す為に。ーー真実を知る為に。


「は、はっ……」


 息も絶え絶えで、足にも力が入らない。しかし、それでも。


「あきらめ、ない。……諦めたく、ない……ッ!」


 自らを奮起するように声を上げる。その声色は、強さも格好良さも感じられない、ふらふらと安定しない音域。

 でも。だとしても。それはリヒトにとって精一杯の、生きようとする決意表明に他ならなかった。


「っ、うぁあああああッ!!」


 ついに目前に迫った魔物の爪が、振り下ろされる瞬間。リヒトは、無我夢中で、叫んだ。そうして、どうにかなるわけがないのに。それでも、叫ばずにはいられなかった。

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呪われた君と、祝福のエシュト。 水風鈴 @w12w_bell

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