ジェームズ・ボンドになれなかった私
ととむん・まむぬーん
背伸びして飲むジャックダニエル
お邪魔したリビングの中央にあったのはテーブルではなく大きな座卓だった。そこにご主人と私が差し向いになって座る。キッチンでは奥様が手際よく今夜の
「ジャックダニエルだっけ?」
ご主人は柔和な笑顔でサイドボードのガラス扉を開けると、そこに並んだ華やかな洋酒の瓶を見繕い始める。そして黒いラベルが特徴的な四角いボトルを手にするとそれを私に掲げて見せた。
洋酒はまだまだ高級品だった当時のこと、恥ずかしながら私がジャックダニエルなる代物の実物を目にしたのはそのときが初めてだった。
続いて飲み方を尋ねられる。
素直におまかせしておけばよかったものを、よせばいいのに粋がって「ロックでお願いします」なんて言ってしまった自分の前に出されたグラス、そこから漂う香りは自分が知るウイスキーのそれとは異質なものだった。
なんだかホコリっぽい匂い。
初めて口にするジャックダニエルだったが、想定外の味と刺激に不意を突かれた私は取り繕う間もなく即座にしかめっ面を見せてしまった。ジェームズ・ボンドに
しかしさすがに歳の功、ご主人は私が目の前のグラスを持て余していることをすぐに察してくれた。キッチンにいらっしゃる奥様に一言、二言、すると間もなく淡い黄金色の液体で満たされたタンブラーが用意された。
「これを試してごらん」
ご主人が勧めるそれを一口。
うまい!
口元に広がる甘い香りは、大学の飲み会に出て来る水割りなんかよりもはるかに心地よく、それこそ何杯でも楽しみたいくらいだった。
――*――
お読み頂いたのは私が一浪の末に大学に入学して間もないころの思い出の一コマです。
登場するのはその当時行きつけだった喫茶店で知り合った初老のご夫婦、お二人とは会うたびに会話が弾み、やがて私はご主人から夕食に招かれます。海外でのお仕事が多いご主人が集めたお酒を私の大学入学のお祝いを兼ねてご馳走してくれるとのことでした。それならばと、私は二つ返事でそのお言葉に甘えることにしました。
「君の好みを聞いておこうかな」
ご主人の問いに私は迷うことなくこう答えました。
「バーボンを。ジャックダニエルをお願いします」
ご主人はやさしい笑顔とともに快諾してくれました。しかし今思うとあの笑顔はまるで出来の悪い息子を見る親のようなものだったのでしょうね。
ジャックダニエルはテネシーウイスキーです。原材料も製法もバーボンウイスキーと同じではありますが、テネシーウイスキーをバーボンと呼ぶことはないということを知ったのはずっと後になってのことでした。
さて、そのとき私がなぜジャックダニエルの名を挙げたか。その理由が今回のお話のテーマでもあります。それでは少しばかりの昔話と
一九七四年の春、007シリーズ第三作「ゴールドフィンガー」がテレビ放映されました。シリーズ初と言うことで盛んにCMが流れていたのを覚えています。
私も子供ながらに007という言葉はなんとなく知っておりましたので興味はありました。すると不思議なもので放映日が近づくにつれてやたらと期待が高まっていきます。そしてついに日曜日、それまでは夜の九時から始まる映画なんて観たこともなかったのに、その日はテレビの前に張り付きでした。
淀川長治氏の解説に続いて、今となってはおなじみのガンバレル、そしてオープニングシーケンスと続いて……現れたのは真っ黒の背景に浮かぶ金粉に塗れた手、そこに映る本編のワンシーン、私はその映像に強烈な衝撃を受けました。
シャーリー・バッシーの力強い歌声、女性の全身に投影されるシーン、とにかくこのオープニングだけがずっと脳裏に焼き付いていました。
そして同じ年の年末、シリーズ最新作「黄金銃を持つ男」がロードショー公開されます。あの007シリーズの新作です。
観たい、絶対に。
そしてそれを機に私は初めてひとりで映画館に足を運ぶようになります。
当時は名画座という映画館があちこちにありました。入場料は三〇〇円、なので小学生のお小遣いでも月に二、三回は行くことができました。
定期的にかかる007シリーズは贅沢にも二本立てだったり、はたまた他作品と併映だったりでしたが、映画雑誌の情報を頼りにして、私はお小遣いが続く限り出かけておりました。
当時はブルース・リー主演のカンフー映画がブームになっていて、クラスでは男の子たちが「アチョ——!」と怪鳥音を発しながらおもちゃのヌンチャクを振り回していましたが、私はひとりで007シリーズに傾倒していました。
まだ家庭ビデオなんてない時代です、私の007熱はますます高まって、今度はサウンドトラック盤を集め始めます。劇中曲を聴きながら場面を思い出すのです。そんなサントラ盤(もちろんCDではありません、LPレコードです)にはライナーノーツが入っており、そこにはマニアックな蘊蓄や裏話が書かれていました。
やれボンドが着る服はどこ製だの、車がどうだの、とにかく登場する諸々について書かれた情報源は映画からよりもむしろ原作小説からまとめられたものでした。作品に登場する高級クラブでのディナーの話、朝食に出される卵のゆで時間やマーマレードのブランド、それらに続いて誌面の多くを割いていたのが、作中に登場するお酒の話でした。
ジェームズ・ボンドと言えばウォッカ・マティーニが有名ですし、ワインについてもかなりの知識が披露されます。ボンドガールにオーダーさせるカクテルにも彼なりのこだわりが反映されています。
そんなボンド氏ですが作中でウイスキーを嗜むこともあります。彼はスコッチよりもバーボン派でロックやソーダ割りで飲むシーンが登場するのですが、そこに出てくるのです、ジャックダニエルの名が。
まだ中学生だった当時の私の頭にその名は深く刻まれました。
そして読み漁った知識を頼りにボンド氏になりきろうと奮闘します、ただし酒とたばこ以外で。
卵は三分三〇秒ゆでたものを。
厚切りのトーストにたっぷりのバターとマーマレードを。
コーヒーは大きめのカップでたっぷりと。
これらは原作に登場するボンド氏の朝食メニューです。そして極め付けはこれもやはり原作でのボンド氏のセリフを真似て「あんな泥水みたいなもの」と言って紅茶を嫌ってコーヒーを飲んでみたり……とは言え、レギュラーコーヒーは高嶺の花だったのでインスタントでしたが。
今思うとこれこそまさに中二病の典型ですね。そう、私の青春時代はジェームズ・ボンドに感化された中二病全開だったのです。
やがて007シリーズは原作の枯渇もあってタイトルこそ原作に倣ってはいるもののストーリーはまったくの別物となっていきます。タイアップなどの事情により原作とは異なるブランドも登場します。愛用の時計はロレックスからオメガになりましたし、シャンパンもドン・ペリニヨンからボランジェになりました。最近の作品ではスコッチウイスキーも嗜みますし、ビールのCMに顔を見せたりもしています。
五十年をとうに超えてそろそろ六十年、原作も含めればそれ以上の長きに渡って世界中のファンを魅了してきた作品です、時代に合わせた変化は当然の流れです。しかし原作からのファンを自負する自分にとって、まさに私の青春時代を育んでくれたジェームズ・ボンドが変わっていってしまうことに少しばかりの寂しさ感じる今日この頃なのです。
さて、冒頭の小噺ですが、実はこれには続きがあります。
――*――
「うん、やっぱりね。まだ若い君たちが大学のコンパなんかで飲むのはサントリー、それもホワイトあたりだろ。あれはね、スコッチを手本にして造られてるんだよ。なのにテネシーウイスキーをロックで飲むんだから、そりゃ面食らったろう」
ご主人のおっしゃる通り、私には返す言葉もなかった。それでもご主人は相変わらずの笑顔で私の顔を立てるようこう言ってくれた。
「君が飲んでいるそれはスコッチ、そんなに高級なものではないけれど飲みやすいだろ。イアン・フレミングって人はね、イギリス人なのにスコッチも紅茶も否定する人でね、ストーリーテリングの方法としてそれは個性になってるんだけどね。それが日本人の嗜好に合うかというと、それはまた別の話なんだよな」
そしてご主人はサイドボードからまたもや、今度は二本のボトル手にしてそれを私に掲げて見せた。
「せっかくだからマティーニを作ってあげよう。最初はジンで、二杯目はボンドのレシピ通りにウォッカで。もちろん、ステアではなくシェイクでね」
ああ、なんということだ。
ご主人はとうに私の中二病の
「あなた、ほどほどにしなさいよ。ジェームズ・ボンドは特別よ、映画じゃないんだから、そんな強いお酒、二杯も飲んだら帰れなくなっちゃうでしょ」
私の目の前で楽しそうに振る舞うご主人に向かってキッチンに立つ奥様がケラケラと笑ってそう言った。
そうか、奥様も気づいておられたのか……。
そのときの私はきっと真っ赤な顔をしていたことだろう、それは決して酒に酔ったからではなく。
そしてその顔色に負けないくらいの頬とおでこの火照り、その理由は酩酊した頭でも十分に理解していた。
そう、今宵、私は自分がジェームズ・ボンドになれそうもないことをあらためて実感したのだった。
酔顔乱文弥栄!
ジェームズ・ボンドになれなかった私 ととむん・まむぬーん @totomn
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