9-4

 そんなことを考えていたら、目頭が熱くなってきたので、私はあわてて桜の木を見上げた。

 なにかの歌じゃないけど、涙がこぼれ落ちないように。


 こんな公衆の面前の、なおかつ人混みの中で泣くとか、恥ずかしすぎる。

 こうして桜を見上げていても、お花見ならおかしくないし。


 そんなことを考えて、しばらくぼおっと桜の花を眺めていたら、ふと、ピンク色の花びらに混じって、真っ白な花が一片、風に流されてきて、私の目の前を通り過ぎて行った。


 春に紛れ込んだ、雪のひとひらみたいに。


 それで、私はその花びらを、目で追いかけた。

 すると視線の先、華やかなピンク色の桜並木の中に、仲間はずれみたいに一本だけ、白い花を咲かせた桜の木があった。


 その白い桜の木は、周囲のピンク色の桜たちに比べると貧相で、花の大きさも小ぶりなせいか、近くに人が集まっていなかった、たった一人を除いては。


 白い花吹雪の中に、あのひとは、いた。


 雪が降るあの夜と変わらない微笑みを浮かべて。

 だから私は、自分が幻を見ているのかと思った。


 でも私が近づいていっても、その幻は消えず、聞き覚えのある穏やかな声で私に話しかけるのだ。



 「美桜、おかえり」



 「どうして…」



 そこにいたのは、私のお兄ちゃんだった。


 あの夜、覚めてしまった夢のように、姿を消してしまったひと。


 私は桜の花吹雪の中で、また幻を見ているのだろうか。

 でも、別れたあの夜と、彼はまったく同じ姿をしているわけではなかった。


 顔にあった擦り傷やあざは消えて、白い肌はどこまでも透き通っていたし、あのつややかな黒髪は少し短くなっていた、服装だってコートじゃない、黒いジャケットに春らしいグレーのニット、汚れていないジーンズにスポーツシューズを履いていた。


 私はそのとき、どんな顔をしていたんだろう、お兄ちゃんは申し訳なさそうな表情をしながら、静かに語りかける。



 「すまない美桜、おかえりを言うのが遅くなった」



 言葉が出てこない。

 何も言わない私の代わりに、お兄ちゃんは話を続ける。



 「あんなふうに君の前からいなくなるつもりはなかった。

 ただ、煙草が吸いたくて外に出て、しばらくしたらお母さんが帰ってきたんだ。


 だからもう部屋に戻ることができなくて…そのまま外にいるわけにもいかなかったから、一度地元に帰ったんだ」


 

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