9-2

 あの夜。

 実体を持ったお兄ちゃんを、また幻想の夜の中に失ってしまった、あのとき。


 明かりがついた室内には、人がいた。

 でもその姿は、私のお兄ちゃんではなく、数日外泊を続けていた、久しぶりに見る母だった。



 「あらぁ、美桜ちゃん、おかえりなさぁい」



 無言のまま、玄関先でバカみたいに立ち尽くしている私に、母は笑顔でそう言った。

 機嫌がいいらしく、テーブルの上にどこかで買ってきたお惣菜をいくつも並べている。



 「もぉねぇ、素晴らしかったわぁ、とっても勉強になったのよ、今回の先生のセッションは…あ、美桜ちゃん、ほらごはん食べる? 美桜ちゃんの好きそうなものたくさん買ってきたのよー」



 そこにいるのは、いつもの母だ。

 そして、いつもの日常だった。


 玄関に突っ立ったままの私の様子なんか気にすることなく、母はひたすら自分のことをしゃべり続けている。


 笑っちゃうくらい、これまでと変わらない私の日常。

 結局、お兄ちゃんと私が、一緒に過ごすことができたのは、24時間にも満たなかったってわけで。


 …なんだよ、もう。

 眠り姫だと思ってたら、実はシンデレラだったっての?

 時間になったら、勝手にいなくなるだなんて。


 また私を置いて、取り返しのつかない存在の空白さだけを残して。

 …おかえりって、私を出迎えてくれるって、約束したのに…。


 自然と、喉の奥から、笑い声がこみ上げてきた。


 絞め殺される寸前のアヒルみたいな声で、自分の喉から、笑いがもれてくる。

 自分が滑稽でたまらなくて、ひたすら笑い続けているのだと、そう私は感じていた。


 だけど、そうじゃないらしいということに、凍りついたように硬直しながら、こちらを見ている母の顔を見て、気づいた。

 いつもなら、私のことなんか気にすることなく、ひたすら自分のことをしゃべり続けるはずの母が、口を閉じて、私に注意を払うような行動を見せるだなんて驚きだった。


 なんだなんだ、お母さんの様子が変だぞ。

 …なんて思っていたんだけど、実はおかしいのは自分の方だったって、頬を伝うあたたかな何かが、ポタリと手の甲に落ちたとき、やっと気がついた。


 私は泣いていた。

 自分でも気づかないうちに、声まで上げて。


 手に触れた涙は、溶けて消え去った、雪の花びらの残骸のようだった。

 その様子を、目で見た途端に、私はすべてを自覚して、本格的に泣き出した。


 駄々をこねる幼い子供みたいな大声を上げて、まさに号泣と言えるくらいに、立ったまま激しく泣き叫んだ。

 そんな私の様子を見て、どうやら母は戸惑い、どうしていいか分からず硬直しているらしかった。


 うんと幼い頃から、今日にかけて、私は母の前で泣いたりした記憶がなかった。

 それどころか、私は自分でも、最後に泣いたのはいつか思い出せないくらい、涙を流したことがなかった。


 だから、自分がこんなに泣ける人間だったことに、泣きながら驚いていたし、私はこんなに泣けるくらい、彼を失ったことが悲しかったんだと自覚して、そこからますます激しく泣いた。


 強固に作られていたはずの心の壁が一度壊れてしまうと、まさに決壊したダムのように、涙はいくらでも私の中からあふれ出てくるのだった。


 コートも脱がずに立ったまま、玄関先で号泣し続ける私と、困った顔でそんな私をみつめ続ける母。

 この夜は、こうして過ぎていった。


 またしても兄を失って、一人っ子に戻った私。


 こうして日常は、またこれまで通りに何の変わりもない、退屈な日々に戻るのだと私は思っていた。


 だけど、この夜を境に、私たち残された家族は、劇的に変化することになる。


 その大きな変化は、もちろん母から始まった。


 お兄ちゃんを失ったあの夜、大号泣した私を見た母は、すこぶるビビッたらしかった。

 もちろん私は、自分があんなにも泣きまくった理由を母に話してはいない。

 (まさか、怪我してる男の子を拾ってきて、この部屋に連れ込み、お兄ちゃんシュミレーションをしていたなんて、ぶっとんだ話、できるわけがない。)


 しかし、はっきりと私に向かって口にはしなかったものの、その原因について、母は独自に何かを考えたらしい。

 

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