8-9
そうして絶望の中で、夜はどんどん深まってくる。
もうすぐバイトに行かなくちゃいけない時間になる。
私はのろのろと出かける支度をして、重い足取りのまま、やがて玄関の前に立つ。
昨日と同じ時間になったら、私はここへ帰ってくるから。
帰ってきたら、今夜は昨夜よりもっと美味しいもの作ってあげるね。
それまで、留守番していてね。
そう、私はお兄ちゃんに言った。
ああ、わかった。
夜道には気をつけて、楽しみに待っているから。
そんなふうに、私を見送るお兄ちゃんは答えた。
女の子たちと私の会話を、お兄ちゃんは聞いていたのかどうか、そしてそれについてどう思ったのか、彼は何も言わなかったので、分からずじまいだった。
不安が常に、凝り固まった呪いのように、私の胸の上で重くのしかかっていた。
最後に振り向いて、玄関扉の冷たいノブに手を置いたまま、私はお兄ちゃんにお願いをした。
絶対に叶えてくれるはずの、お願いを。
「ねえ、私が帰ってきたら、そのときは…おかえりって、ちゃんと言ってね」
「ああ、必ず」
うちの安っぽい蛍光灯の明かりに照らされながら、優しく私に微笑んでくれるお兄ちゃんの笑顔をみつめながら、うちを離れたくないと私は胸の痛みを感じながら強く思った。
目を離したら、美しい奇蹟の魔法が、溶けて消えてしまうんじゃないかと、怖くて。
おとぎ話っていうものは、いつだってそういうものだから。
でも結局私は、部屋の中に彼を大切に閉じ込めるように、玄関扉を閉めると鍵をかけ、何度も振り返りながら、バイト先に向かうため、うちを離れた。
仕事中の数時間、ずっとお兄ちゃんのことを考えながら、早く時間が過ぎてほしいと祈って、ジリジリしながら慣れた作業をこなしていく。
そして、終業時間になったと同時に、挨拶もそこそこにバイト先を飛び出して、うちを目指して走り出す。
不吉な予感が、早く早くと、私の背中を押して急き立てる。
空から舞い落ちる雪は、あんなにも真っ白で綺麗なのに、惨めにも地面に落ちて踏み固められ、一日経ったそれは、びちょびちょで汚くて、本当に嫌になる。
そんな灰色の氷の残骸の上を、転ばないように気をつけながらも、全速力で私は走ってうちに向かっていく。
賑やかさが戻ってきた繁華街を抜けると、うちのボロアパートが見えてくる。
私が出ていったときと同じように、うちの部屋の窓からは、室内の明かりがもれているのが見えて、ホッとする。
お兄ちゃん、あそこには、私のお兄ちゃんがいる。
彼氏なんかじゃない、妹の、私を待っていてくれている、お兄ちゃんに、私はもうすぐ会える。
もどかしくなりながらもカバンから鍵を取り出し、解錠すると、勢いよく玄関扉を開けた。
ヒーターによって暖められた、ぬるい我が家の空気が、私の頬をなでる。
おかえり、という出迎えの言葉を心待ちにしながら、私は部屋を見渡した。
お兄ちゃん、ただいま。
そんな言葉を口の中に含んだままで。
だけど、蛍光灯の明かりに照らされた、いつもの室内に、お兄ちゃんの姿はどこにもなかった。
私は、ただ呆然と、玄関先で、立ち尽くした。
ルール設定をしよう、と、最初にお兄ちゃんは言った。
確実なシュミレーションをするには、肝心なことだから、って。
…自分は、暗黙のうちの大切なルールを、破ってしまったんだ、と私は思った。
だから罰として、魔法が解けてしまったんだ。
お兄ちゃんは、今度こそ永遠に、私の前から消え去ってしまった。
冷えきった自分の頬を、あたたかな涙が、無言のうちに伝っていく。
夜空から、真っ白な花びらが、降りそそいでいる。
そんな美しい光景の中で、私の隣にいてくれたお兄ちゃんは、もうどこにもいない。
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