8-7

 …きっと聞かれてしまっている。


 玄関扉の薄さがどれくらいのものか、私はよく知っていた。

 深夜に酔っぱらって帰ってきたアパート住民の鼻歌だって聞こえるし、うちに入れて欲しいとニャーニャー鳴く、隣の部屋のトラ猫の声だって、ここまで聞こえてくるんだから。


 それにあの子たちは、あんなに大声でしゃべっていた、自分の話題が出たことくらいは、確実に知っているはず。


 じゃあ、私が口に出した言葉は?

 私はそんなに大きな声でしゃべったつもりはない、だけど、あのとき私が立っていた場所は、玄関からそんなに離れていなかった。


 …どうしよう、あんな言葉を聞かれていたら…私は、どうすれば…。


 ひょんなことから私の目の前に現れたこのひとを、私のお兄ちゃんになって欲しいと言って足止めし、ここに閉じ込めたのは、私だ。


 失ってしまったお兄ちゃんの、シュミレーションをしたいのだと。


 それを、いま、私は、私自身で否定してしまった。


 このひとは、私の彼氏なんかじゃない。

 私のお兄ちゃんなの。


 生まれてきてから、常に存在を感じてきた、いつだって私の近くにはいたのに、それなのに傍にはいなかった、私のお兄ちゃん。


 彼氏なんていう存在なんかじゃ比べることもできないくらい貴重な、この世界にたったひとりだけ、私だけのお兄ちゃん。


 曖昧な想像の中に佇む、幻影のような存在だった兄を、実際にこの目で見て、私の名前を呼ぶ声を聴き、その存在のあたたかさを感じて、妹としての自分を理解してみたい。

 …それが、私の望むものの、すべて。


 今だって、その意志に嘘偽りはない。


 じゃあなぜ?

 なぜ私はあの子たちに、あのひとは、私のお兄ちゃんだって、本当のことが言えなかったの?


 何も言わないお兄ちゃんと、何も言えない私。


 誰も言葉を発しない、さっきよりも室温が下がってしまったように感じる二人だけの部屋の中で、私は頭の中がぐるぐるして、苦しくて、悲しくて、痛くて、涙が出そうだった。

 

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