8-5
それは、大切な宝石箱の中を勝手に覗かれてしまったときのような、苛立ちと不快感。
そして、それとは別の、ある種の優越感だった。
さっきお兄ちゃんが彼女たちに見せた微笑み…これまで私には見せなかった種類のその甘い笑顔、それが私に教えてくれたから。
あれは完全に、お客様に対するお愛想用の微笑みだった、と。
彼女たちの言うとおり、お兄ちゃんはかっこいい…というか、綺麗な顔立ちをしている。
だけどおそらく、本人は自分のそんな顔の造形について、特に何とも思っていない。
時々やわらかい微笑みを浮かべることはあるけど、基本的にはポーカーフェイスというか、あんまり感情を顔に表すタイプじゃない。
たぶんあの性格からしても、やたらと他人に愛想笑いを見せるひとでもないはず。
そんなお兄ちゃんが、本当に物語にでてくる王子様みたいにわかりやすい笑顔を見せたのは、私のためだった。
妹の私のために、そのお友達へ兄として、感じよく振るまおうとしてくれた。
それが無言のうちにも分かって、私はむずむずしてくるほど嬉しかった。
お兄ちゃんがそんなふうに他人へ笑顔を見せるのは、私のためだけだ。
そして、お兄ちゃんの本当の、心からの微笑みを知っているのも、私だけ。
「ねえねえ、いまの人ってさー」
絶望的なまでにハイテンションだった二人の様子も、だいぶ収まりだしたところで、私も油断したんだろう、不意を突かれるような形でこんな質問をされた。
「年上っぽかったけど、もしかしてさー、カレシなの?」
「…えっ?」
…カレシ? お兄ちゃんが、私の…彼氏…?
きらきらと興奮で輝いた瞳たちが、射抜くように私をみつめている。
私が答えるのを待っている。
思わず息をのんだ。
頭のどこかが焼き切れたみたいに、上手く思考が働かないのを自覚しながら。
ああ、早く、何か、言わなくちゃ、この沈黙は、…危険だ。
そして言葉を発するために、乾いた口を私は開こうとする。
まるで自分の口じゃないみたいに、ゆっくりとそれはつぶやいた。
「…そうだよ」
くちびるが震えるのは、寒いから。
「あのひとは、私の彼氏…なの」
凍えたくちびるが、私の意志とは無関係に、取り返しのつかない言葉を紡ぎ出す。
冷えきった声で私がそう言い終わった途端、二人はキャーッと大きな歓声を上げた。
ええーそうなんだぁ、すごぉい、どこで知り合ったの? えっえっ、どんな人なの、ちょーイケメンだよねー!
二人に悪気がないのは分かっている。
ここが学校だったなら、人付き合いのあまりよくない私でも、こんなミーハーな会話であったとしても適当に合わせてあげられるだけの精神的余裕があったかもしれない。
でも今私は、薄着で外に出てきたせいか、ひどい悪寒と頭痛を感じていた。
はやく…早くうちに帰りたい。
二人が張り上げるかん高い声にくらくらとする頭を押さえながら、それでも私は語るべき言葉を口から絞り出した。
「ねえ、本当に悪いんだけど、ちょっと具合が悪くなってきちゃったから、私なかに戻るね」
疲れた声でそう言うと、彼女たちはハッとした顔をして口を閉じた。
二人はもともと、今日私が学校をサボった理由を、病欠だと信じていた。
軽いお見舞いの意味も兼ねて、自分たちは私へ荷物を届けに来たのだったと、当初の目的を思い出したようだった。
そう、彼女たちはちょっと騒がしくミーハーで、強引な部分もあるけれど、ちっとも悪い子たちじゃないのだ。
顔色を悪くした私を見ると(きっとこのときの私は、蒼白な顔をしていたんだろう)少しトーンが下がった声で、大丈夫? 気をつけてね、と口々に私を気遣ってくれた。
そして、また学校で会おうね、と言うと二人は並んで、薄く雪が残っている歩道へ向かって歩いていった。
ときおり振り返って、こちらに手をふりながら。
私もちいさく手をふって返しながら、彼女たちの後ろ姿が塀の向こうに隠れて見えなくなるまで、震えながら立ち尽くし、みつめていた。
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