8-4
とりあえず母が帰ってきたのではないことは確かだ、お母さんだったら、ノックなんかしないで自分の持っている鍵を使って勝手に入ってくるはずだから。
でも他に、うちを訪ねてくる人物の心当たりがない。
このボロアパートに引っ越してきたのは1年とちょっと前で、同じアパートの住民の人たちとは、特別親密なご近所付き合いもなければ、昔からの知人にもここの住所は伝えていなかった、あくまでここは一時的な別居住まいのために(表向きは、だったけど)借りているだけなのだから。
ざざっとそこまで考えたとき、まさか…と私は息をのんだ。
暗い夜空の下で、眠り姫と出会ったときの光景を思い出す。
昨夜のあいつら…あのガラの悪い連中、まさかこの場所にお兄ちゃんがいることを嗅ぎ付けて、ケンカの続きをするためにやってきた…?
どうしよう、少しは元気になったけど、まだ怪我してるお兄ちゃんじゃ、あいつらから今度こそボコボコにされちゃうかもしれない!
えーっとえーっと、このまま息をひそめて居留守つかって、あいつらが諦めて帰っていくのを待った方がいいかな?
いや、だけど部屋の電気つけちゃってるし、テレビの声も少しは外にもれてるかも、うちの中に人がいることはバレちゃってるよね…?
テーブルの前で硬直したように息をひそめながら、ただノックされた玄関扉を見つめることしかできなかった私だったけど、もう一度ノック音がした後、扉の向こうから微かに、女の子の声が聞こえてきたことで、ホッと全身の力が抜けた。
その声に聞き覚えがあったからだ。
のろのろと腰掛けていたイスから立ち上がると、玄関まで行き、ガチャリと解錠したあとノブを回して、私は扉を開けた。
「あーっ、いたぁ」
まだ数センチは残っている雪のせいで足場が悪く、立ちにくそうにしている見慣れた顔の女の子が二人、制服姿できゃっきゃと騒ぎながら、うちの玄関の前にいた。
私と同じクラスの子たちだ。
さほど仲良くはない、まあ仲悪いわけでもないけど。
それを言ったら、仲良しこよしな子なんて、私にはいなかったんですがね。
なんでも彼女たちはクラスの代表として、学校をサボりがち…いや、ここのところ体調不良により欠席しがちだった私のために、配布物だとか何とかを、わざわざうちまで持ってきてくれたらしい、ご苦労なことである。
住民票とかは実家のままで変更してなかったけど、学校に伝えてあったのは、実際に住んでいるここの住所だったんだと、このとき私は思い出した。
玄関扉を開けたせいで、暖かかった部屋の中に冬の冷気が入り込んでくる。
肌寒かったけど、玄関にあった適当なサンダルを履いて、私も彼女たちの前に立った。
お礼を言って、届け物を受け取る。
さあ、これでミッション終了と二人は帰っていくのかと思ったら、そのまま玄関先でおしゃべりタイムが始まろうとしていた。
てっきり風邪でも引いてるもんだと思っていた私が、存外元気そうだったから、二人のテンションはお見舞いモードから、遊びにやってきた感覚に変わったんだろう。
放課後の教室のノリで、女の子特有のこれと言った話題はないけど永遠にしゃべれる、みたいな流れに自分が巻き込まれ始めたことに気づいて、私は慌てた。
この二人、悪い子じゃないんだけど、しゃべってると明るさ突き抜けてる感ハンパなくて、疲れるから苦手なんだよなぁ…。
話題も、流行のアイドルとか、ミーハーな内容が多くて、いまいち興味も出ないんだよね。
寒いからもう扉閉めたいんだけどな。
そんなことを考えて内心困っているくせに、私は薄笑いを浮かべながら(学校の帰りにわざわざ私の荷物を届けてくれた義理もあるし)クラスのイケメン男子について語りだした彼女たちの話に耳を傾けていると、背後で物音が聞こえた。
「美桜?」
私の名前を呼ぶ声に振り向くと、もちろんそこにはお兄ちゃんがいた。
ちょうどお手洗いから出てきたところらしくて、お兄ちゃんは今ここで起きている状況をまったく分かっていない。
それでひょこっと顔をのぞかせてきたようだった。
で、玄関先に立っている私と同じ年頃で、制服姿の女の子二人組を見て、たぶんお兄ちゃんは彼女たちのことを、うちに遊びにやってきた私の友達だと思ったんだろう、にっこりと彼女たちに微笑んでみせて、さらに優しく声をかけた。
「こんにちは」
これまでに私が見てきた種類のものとは違う、まるで蜂蜜のように甘い微笑みと、声。
そんなお兄ちゃんの様子を見た瞬間、私は、自分の背中にゾゾッと鳥肌が立つような嫌な感覚がした。
「ちょっと待ってて!」
自分でも何故だかそのときは分からなかったけど、このままではまずいと感じた私は、それだけお兄ちゃんに言うと、コートも着ずに外に飛び出して、お兄ちゃんを部屋に閉じ込めるように、ばたんと玄関扉を閉じた。
お兄ちゃんの姿を、これ以上彼女たちに見せてはいけない、とにかくそう思ったから。
だけど遅かった。
扉を閉めた後に、私の前に立っている二人を見て、そのことに気づく。
玄関扉を閉めて、一瞬のシンとした間があった後に、彼女たちは一斉にキャーキャーと百万匹の小鳥の群れのように騒ぎ出した。
「ねーねー今のちょーイケメンじゃなかった!?」
「だよねぇ、ちょーカッコよかったよねー!?」
つまりは、私のお兄ちゃんがかっこいいということを、言い方を変えつつ繰り返し繰り返し、騒ぎながら口にするのだ、どこかが壊れたびっくり箱みたいに。
ちょっと静かにしてほしいと思って(恥ずかしい)寒さに震えながらも私は、はしゃぎまくる彼女たちを落ち着かせようと、一生懸命なだめた。
それは、熱にうかれて弾け飛ぶポップコーンをトウモロコシに戻さなくちゃいけないのと同じくらい大変な作業だったけど。
そして私は、そうして彼女たちをなだめながら、複雑な感覚を味わっていた。
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