8-3
今はこうして私のそばに、実体を持った現実のお兄ちゃんがいる、それだけでいい。
この感覚を、覚えておこう。
何年経ったとしても、忘れないように。
昼食を済ませて、満腹な猫みたいに目を細めながら、なんとなくテレビを眺めているお兄ちゃんの姿を見ながら、私は思った。
お兄ちゃんがどう感じているのかは、分からないけど。
とにかく私の方は、春の空気を詰めこんだ飛行船のように、満たされていた。
花びらの舞う、快晴の大空をどこまでも飛ぶような、そんなゆるやかな空気の中で、私たちは、のんびりと午後の時間を過ごす。
どこまでも果てなく広がる春の空を、私とお兄ちゃんを乗せた飛行船は進んでいくのだ。
誰にも邪魔されることなく、自由に。
…だけど、空はいつまでも明るく輝いているわけではない。
冬は日が落ちるのが早い。
私はそのことを忘れていた。
段々と冬の空は薄暗くなっていき、外の世界に夜の気配がただよい始めた頃、私たちがいる室内もまた、太陽の光の恩恵を失いつつあった。
そろそろ部屋の明かりをつけるべきかもしれない。
ちょうど私がそんなことを考え始めたとき、お兄ちゃんが「美桜、電気をつけようか」と言ってイスから立ち上がると、壁に張りついているライトのスイッチを押してくれた。
ありがたかったものの、一気に室内が明るくなり、今までの薄暗さとの差に馴染めなかった私の目は、まぶしさからパチパチと瞬きを繰り返した。
そんな私の様子を見て、お兄ちゃんはちょこっと微笑んでから、立ち上がったついでにお手洗いへと向かっていった。
そして私はひとりになる。
だんだん室内の明るさに慣れてきた私は、瞬きを繰り返していた目を、カーテンを閉めたままの窓の方へ動かした。
もうすぐ夜がくる。
いつもどおりに学校をサボって、昼間はお兄ちゃんと一緒に過ごした私だけど、今日は18時からバイトの予定が入っていた。
それだけはきちんと顔を出さなきゃいけないから、ここではじめて私はお兄ちゃんとしばらく別れることになる。
はーっと、ため息をつく。
よりにもよって今夜、シフトが入っちゃってるなんて、サイアク。
このままここで、お兄ちゃんといっしょに過ごしていたい。
だけど学校とは違って、仕事はサボったりできない。
私がいきなり休んだら他のスタッフに迷惑がかかちゃうから、絶対行かないと。
そんなことを考えて、ひとりでボーッとしていたら、ふいにトントンと、うちの玄関扉をノックする音が聞こえた。
まさに不吉なお告げが、実態をともなってノックをしているかのように。
このボロアパートには、呼び出し用のベルなんて立派なものは備え付けられていない。
そんなどうしようもない木製の扉を、外に立つ誰かが、その手でトントンと叩いたのだ。
その乾いた音を聞いて、私の心臓はビクリと飛び跳ねる。
一体誰が、うちにやってきたんだろう?
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