7-3

 そう言われてみて、お兄ちゃんのようすをよくよく見てみたら、確かに歩き方のぎこちなさというものは、昨夜に比べてかなり薄らいでいた。


 食器の洗い物をし終わったあとで(もちろん私も手伝った)お兄ちゃんにはイスヘお戻りいただき、またジーンズの裾をめくってもらって怪我の様子のチェック、左足に新しい湿布を貼り替えたときにも、白い肌に痛々しく痕をつけていた赤紫色のあざが、少しだけ落ち着いた色に変わっているような気がした。


 回復早いなぁ、このひと。

 それでもやっぱり、湿布が肌に触れるときの冷たさは苦手のようで、相変わらず貼るときには顔をしかめるから、今日は本人の前で思いっきり笑ってしまった。

 すると一瞬、女の子が拗ねるときみたいに、むうっと軽く口元をゆがませたのが、ちょっとかわいくて、さらに笑いが止まらなくなった。


 でも笑ってばかりじゃなく、ついでに手の方の傷も、あらためて消毒し直した。

 皮膚からの出血は止まっていて、もうかさぶたになっている、こちらも昨日より患部の具合は落ち着いて見えたけれど、それでも生傷がいくつも残っているわけなので、またしてもぺたぺたと、かわいい絆創膏を手の甲に貼りまくってやった。

 今日の絆創膏は、ねこちゃん絵柄で決めてみました。


 そんなキュートなデザインの絆創膏を手の甲や指に貼られまくったお兄ちゃんは、じっとそれらをみつめていたけれど、特に何も言ってはこなかった。

 昨夜から続いて、自分の手にかわいい絆創膏が貼られてる光景に、もう慣れ始めちゃったんだろうか?


 こうして朝食とその片付けを済ませ、お兄ちゃんの怪我の手当ても終わってしまうと、私たちは俄然ヒマになった。


 特にすることもなかったので、なんとなくテレビをつけ、別に見たくもない退屈なニュース番組にときおり目を向けながら、私とお兄ちゃんはテーブルで向かいの席に座ったまま、お茶を飲んだ。


 ちなみに今朝は緑茶じゃなくて、紅茶だ。

 それは、ずっと前にスーパーの見切り品コーナーで半額になっていたから買ったものの、元は高級な紅茶缶だったから、いつか特別な日に開けるんだと決意したまま、今日まで放置されていた茶葉で入れたものだった。


 ひとくち飲んでみると、想像したとおりの、味わい豊かで上品な紅茶の味がした。

 ちらりとお兄ちゃんの様子を見たら、ふーふーしながら、マグカップの紅茶を丁寧に飲んでくれている。

 そのことに、私はたいへん満足する。


 この紅茶缶を買ったとき、こんなふうに私のそばで一緒にお茶を飲むひとがいるだなんて、…しかもそのひとが、実体を持った私のお兄ちゃんだなんて、想像もできなかった。

 人生って、意外と何が起きるか分からない。


 ヒーターでぬるく暖まった室内で、熱い紅茶の入ったマグカップを手にとり、お兄ちゃんと並んでテレビを見ているなんて。


 しみじみしちゃってるけど、こんなこと、世界中の兄妹を持つ多くの人々にとっては、当たり前のなんてことない日常なんだろうな。

 だけど私にとっては、たとえ何も特別なことをしていない時間であっても、ごく普通の日常の空気の中にお兄ちゃんがいてくれるこの光景こそ、千年に一度だけ姿を現す特別な月食みたいに、とんでもない奇蹟なのだった。


 ああ…これって本当に…。

 紅茶から、ふわりとただよう白い湯気が、私の視界をふわふわとおぼろげにさせる。


 現実的なシュミレーションをしたいと提案したはずだったのに、私は今、現実世界から切り離された美しい幻想の中に取り込まれていた。


 お兄ちゃんと私しかいない、この部屋。


 あたたかくて穏やかで、誰の罵声も悲しむ声も聞こえない、誰にも無駄に気を遣う必要もない、そんな私たち兄妹だけのこの部屋は、ちいさなキューブのように世界から切り離されて、きらきらと細やかな星々が輝く暗黒の宇宙空間を漂っているみたいに感じられた。

 ここは時間の流れすらも止まっていて、この瞬間が永遠に続いていく。


 …なんてね。

 もちろん私たちの周囲の時間は、確実に進んでいた。


 お兄ちゃんと私は、ぼんやりとテレビを眺め、時折そのテレビの内容にツッコミを入れたり、あるいはまったく関係のないことを軽く口に出したりして、ゆるゆると午前の時間を過ごしていった。


 そのうちにテレビ画面には天気予報が表れた。

 見慣れた日本列島のイラストが表示された後、それは関東地方のものへと切り替わり、細かいお天気マークがいっせいにピコッと飛び出す。


 それらはすべて、にっこり笑ったかわいい太陽のマークだ。

 関東地方一帯は、しばらく晴れが続くらしい。

 

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