7-2

 

 「簡単なものしかないけど、ごはん用意するね」



 ちらりと壁時計に目をやると、時間はもうすぐ9時になるところだった。


 自分ひとりだったら普段、まだ布団の中でごろごろしている時間だ。

 やっぱり誰かがいると、生活の中に規則正しいリズムが出来るものなのかもしれない。


 朝ごはんだって、自分だけだったら適当にその辺にあるものを食べて終わらせちゃうけど、お兄ちゃんがいるから、それなりに格好のつくものを用意する。


 とは言っても、ゆで卵を作って、切ったレタスやトマトといっしょに盛りつけたシンプルなサラダと、焼いたベーコンを添えたトーストっていう、超簡単な朝ごはんなんだけど。


 そんな雑な朝ごはんでも、やっぱりお兄ちゃんは昨夜と同じように、おいしいおいしいって言って食べてくれたから、うれしさよりも、なんか恥ずかしさでムズムズしちゃったんだよね。


 お兄ちゃんは普段、料理をまったくしないらしくて、いつも外食に行ったり買ったものを食べるのが当たり前だから、作ってもらったものをあったかいままで食べられるのが、ありがたいってしみじみ言っていた。


 ふうん、男の人って、みんなそういうものなのかな?

 私のお父さんは、けっこう自分でもごはんを作ってくれるタイプなんだけどね。



 「…ところで美桜、今日は学校はないのか?」



 昨夜と同じ、お兄ちゃんの正面の席に座った私が、ママレードジャムをぬったトーストにかぶりついていると、おずおずといった感じのお兄ちゃんに、ふいにそんな質問をされた。


 その日は普通の平日だったから、もう10時も近いのに特に急ぐ様子も見せず、だらだらと朝食を取り続けている私に、お兄ちゃんは疑問を持ったのだろう、それも当然だった。

 口の中のトーストを、もぐもぐときっちり咀嚼して、飲み込んでから私は答えた。



 「今日はいいの、雪だって積もっているしね」



 「…そうか」



 いいも何も、単純にいつもの不登校なんだけどね。

 最低限の出席日数はきちんと確保しているし、わざわざこんな雪の積もっている寒い日に…そして、これまで私が失い続けてきたお兄ちゃんと過ごすことのできる、貴重な一日をふいにしてまで、つまらない学校へ行くわけがない。


 私のそっけない答えを聞いて、まだお兄ちゃんは何か言いたそうだったけれど、そのまま口を閉じて、静かにトーストにバターをぬり始めた。


 お兄ちゃんは、トースターにバターをぬるときも、几帳面で丁寧だった。

 まるで大切な人へ贈る絵を描いているときみたいに。


 学校へいかないのは当然として、雪が積もっているのもそうだけど、足を怪我しているお兄ちゃんもいることだし、バイトの時間がくるまでは、私はうちから出るつもりはなかった。


 さっき冷たいカーテンの隙間から、ちらりと窓の外を眺めてみたら、そこはもう一面の銀世界に変化していて、普段のごちゃごちゃとした繁華街特有の表の風景を、穢れのない白ですべて包んでいる。


 空は薄曇で明るく、もう雪は降っていない。

 普段と比べて人通りが少なく感じられる歩道は、一応通行はできる程度に雪が横に除けられていたけれど、そこ以外の場所にはざっと20cm程度の雪が積もっているように見えた。

 それって、東京の人間からしたら大雪だ。


 真っ白な雪、まだ誰の足跡もついていない、東京にいきなり現れた美しい雪原。

 一夜を境にして、幻みたいにして突然現れた、美しい世界。


 きれいだな…。

 窓越しに、雪景色を眺めて息を吐く。

 そしてすぐにカーテンをぴったりと閉めた、窓から外の冷気が室内へ移ってこないようにと。


 もう無邪気な幼い子供でもない私は、都会では滅多に見ることのできない、美しい雪景色にはしゃいで外に飛び出していくこともない。


 今は、この部屋の中にこそ、滅多どころか永遠に見ることができないと思っていた、幻想の世界が広がっているのだから。



 「美桜」



 私の名前を呼ぶひと。

 私の、お兄ちゃんがいる世界が。



 「ごちそうさま、ありがとう、とても美味しかった。

 あとは俺が片付けよう、それぐらいなら俺にも出来る」



 朝食も終わって、少し落ち着いたところで、お兄ちゃんはイスから立ち上がると、自分が使った食器を手に取り、そのまま台所の流しへ運ぼうとしている。

 テーブルのむこうからそんなお兄ちゃんの様子を見た私はギョッとして、呼び止めようとした。

 昨夜までのお兄ちゃんの、生まれたばかりの子鹿ばりのよろよろとした歩き方は、私の脳裏に焼き付いている。


 食器を持ちながら、立ち上がって歩くなんて、お兄ちゃんには難しすぎるでしょ!



 「いいよ、テーブルに置いといて私がやるから、大丈夫じゃないでしょ足…」



 だけどもお兄ちゃんは私の呼びかけに足を止めることなく、そのままスタスタと台所まで歩いて行って、流しに食器を置くとそのまま水を出して、すぐそばにあるスポンジで洗いものを始めた。



 「いや、昨夜ゆっくり休ませてもらったおかげで、だいぶ良くなった。

 それなりに痛みは残っているが、もう普通に歩ける」


 

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