7

 ゆるやかに意識が、もどってくる感覚。

 まどろんでいた私という存在が形を取り戻し、つまらない日常の光の中でまた目を覚ます。


 はじめ私は、いつものようにあったかい布団の中に横たわったまま、薄いカーテンの布を突き通ってまぶたに刺さってくる朝の光がうっとおしくて、眉間にシワをよせ、しばらくボーッとしていたんだけど、いきなり昨夜の出来事を…お兄ちゃんのことを思い出して、ガバッと起き上がった。


 急いで、隣に敷かれている布団の方へ目をやる。

 朝の光の中でも、昨夜と同じように、あの眠り姫が、静かに目を閉じているのかもしれないと思ったから。


 だけどそこに、お兄ちゃんはいなかった。

 眠り姫がいるはずの場所には、ただ、きちんとたたまれた布団一式が、日の光の中で静かに置かれているだけだった。


 それを見たとき、クラッと一瞬目眩を感じて、私は自分の頭を押さえた。

 まさか昨夜の出来事はすべて、私の見た幻想…私にとって都合のいい、ただの妄想だったのかと思って。


 とりあえず、寝起きでちょっとふらふらする足を動かしてゆっくりと立ち上がり、布団はそのままにして、隣の居間へと行く。

 口の中がカラカラだった、現実はともあれ、とにかく水が飲みたい。



 「おはよう、美桜」



 穏やかな朝のぬるい光。

 その中に響く、もう聞き慣れた、穏やかな声。


 名前を呼ばれて顔を上げると、居間には、夢や幻じゃない、昨夜と何の変わりもない私のお兄ちゃんがいて、昨夜と同じイスに座ったまま、静かに微笑んで私をみつめながら、朝の挨拶をしてくれた。



 「…おはよう、お兄ちゃん」



 日光の中で、雪のように溶けて消えてしまうような幻じゃない。

 昨夜とまったく同じ、白い肌と少し顔にかかっているつややかな黒髪、女の子のように整った顔立ちと凛々しい形をした目元、親密さの含まれた穏やかな瞳で私に微笑みかけるときの、やわらかさ。


 これまでは、いつだって変わることのない日常にうんざりしていたはずの私は、昨夜と変わらないお兄ちゃんの様子に、心の底から安堵していた。

 いるかどうかも分からない神様に、感謝したい気持ちになるくらいに。


 『お兄ちゃんシミュレーション』はまだ終わらない。


 実体を持ったお兄ちゃんと過ごす、幻みたいな私の一日が、こうして始まっていく。


 

 「なにを読んでいるの?」



 ドキドキと安堵で高鳴る胸の内は隠しておきながら、何気ない口調で、私はそうお兄ちゃんへ質問する。


 テーブルの前に座っているお兄ちゃんは、手に文庫本を持っていた。


 いつからかは分からないけれど、私よりもうんと前に起床してたっぽいお兄ちゃんは、暇つぶしに今まで本を読んでいたらしい。

 コートのポケットにでも忍ばせていたんだろうか、昨夜ズダボロのお兄ちゃんをうちまで運んできたときには、本なんて持ってなかったと思うんだけど。



 「ああ、これか」



 私の質問を聞いて、お兄ちゃんは開いていた本をかるく閉じると、こちらに表紙が見えるように傾けてみせた。



 「すまない、そこの棚の上に置いてあったのが見えたから、借りたんだ。

 何でもいいから本が読みたくて。

 しかし恋愛小説なんて読むのは初めてで、すごく新鮮だ」



 「恋愛小説?」



 お兄ちゃんが見せてくれた本の表紙は、私にとって見覚えのないものだった。


 その本は、私のものじゃない。

 ということはつまり、うちに置いてあったというその本は、私の母の持ち物ということになる。


 母が恋愛小説を読んでいる?


 いちおう一緒に暮らしてはいても、顔を合わせることは頻繁ではなかったし、そもそもお互い相手のことにさほど興味がなく、基本的に干渉してこなかったから、母が具体的にどんな趣味思考の持ち主かをあまり知らなかった私は、母が恋愛小説を好んで読んでいるらしいという事実にちょっと驚いた、なんか意外だ。



 「別にテレビつけて、好きなの見てもいいんだよ」



 「ありがとう、だがせっかくだから最後まで読み切りたい」



 そう言うとお兄ちゃんは、また本へと視線を戻して、熱心に続きを読みはじめる。

 その本、そんなに面白いの?


 そんなお兄ちゃんの姿もまた、意外っちゃ意外だったけど。

 荒くれ者たちと素手でケンカをするような攻撃的な部分もあるくせに、本を読むのが好きなんだ、しかも今読んでいるのが恋愛小説だなんてね。


 読書に夢中なお兄ちゃんを放っといて、落ち着いてきた私は洗面所で身支度を整え、また和室に戻ると、ささっと服を着替えて布団を片付けた。

 こうして完全に眠気も消えて、きちんとした活動モードになった私が居間へ戻ると、ちょうどお兄ちゃんも例の本を読み終わったところらしく、顔を上げて私を見た。

 

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