5-7

 長ネギを包丁で切る手を止めてしまうと、部屋の中は、ヒーターの運転音と鍋の中の水が少しずつ沸騰していく音しか聞こえない。


 そんな穏やかな空気の室内で、相変わらずお兄ちゃんは淡々と、響きの良い声で続きを話す。



 「想像通りに頭の悪そうな男が、因縁をつけながら作業中の俺に近づいてきた。


 俺が何をしているところだったのかまでは、そのときは分かっていなかったらしい、俺はさりげなく手早い動きで、鍵穴を埋めてやっていたからな。

 ただ、車の周囲をうろついている俺に不信感をもって、こちらへ近づいてきたというところだった。


 その不信感は正解だったわけだが、男には警戒心が足りなかった。

 男がこちらへと接近してきたとき、俺は間髪入れずに、奴の顔を殴ってやった。


 あれはもしかすると、鼻が折れたかもしれないな、とにかく俺は男をノックアウトして、その隙に逃げてやるつもりだった。


 だがここで、俺はミスを犯した。

 俺がノックアウトした男の後には、仲間がついてきてたんだ。

 それに気づくのが遅れてしまった。


 あっという間に周りをバカ共に囲まれた。

 あのときは…5人くらいいただろうか、さすがに一対五は多勢に無勢だ、とりあえずそのうちの2人は最初の男と同じように、速やかに道路の上で眠りにつかせてやったんだが、こちらもその間に結構喰らってしまってな、むこうはもっと仲間を呼ぼうとしていたし、俺も疲れてきたから途中で退散することにした。


 だが下手して足をやられてしまったもんだから、遠くまで行くことができなかった。

 とりあえずは奴らを撒いて、少し休みたかったから、あそこに隠れることにしたんだ。


 そして君の世話になることになった、本当にありがとう、すまなかった」



 「なんか…たいへんだったんだね」



 おいおい、たいしたことなさそうにあっさりしゃべってるけど、それって結構なことじゃない?

 確かにこの辺りは治安がよくないし、荒っぽい話題を耳にするのは慣れてるけど、それにしたってなかなかヘビーな話ですよ。


 つーか、そんなボコボコにされる理由作ったの、お兄ちゃんからなんじゃん。


 相手側も犯罪行為をしていて悪い奴らだとは思うけど、お兄ちゃんも犯罪行為でガッツリ返しちゃってるじゃん。

 しかし、諸々に対するお兄ちゃんの手際の良さよ…。

 これはシンプルに、もはや自業自得ですね。


 まったく、やんちゃなお兄ちゃんですこと。

 どうやら眠り姫は、その穏やかな佇まいの外見とは裏腹に、けっこう武闘派な性格をしているらしい。

 まあ、そういう荒っぽい行動に出るのは、相手もまた攻撃的な場合のみ…みたいだけど。

 私に対してはさっきから一貫して、紳士然としてるもんね。

 だからお兄ちゃんのことを、実は怖い人なのかもとか、そういった警戒心はまったく持っていない。

 うーん、私って楽観的な性格してるのかな?


 とりあえず、ここまでのお兄ちゃんの話で分かったことは、どうやらこの人は大学生とかじゃないらしく、さらには、この辺りに住んでいる地元の人ってわけでもないらしいってこと。


 話の端々から想像する限り、このひと、ロクな生活してなさそうだな、まあ私も人のこと言えないけど。


 沸騰した鍋から、ふわふわと鰹節のだし汁の香りがあふれて、私とお兄ちゃんがいるこの狭い部屋の中を、あたたかく満たしていく。

 だし汁の中で浮き沈みする豚肉やネギを、私はじっとみつめる。


 私はこれ以上、このひとが何者であるのかを詮索するつもりはない。

 私だって他人から、興味本位であれこれ個人的なことを尋ねられるのは嫌いだし、彼だってそういうのは好きじゃないと思う。


 ここに今いるのは、わたしのお兄ちゃん。


 むしろ、彼個人のいろんなことを知ってしまったら、どんどん私のお兄ちゃんからは離れていってしまう気がする。

 私たちに必要なのは、精密なお兄ちゃんシミュレーションなんでしょ?



 「はい、うどんできたよー」



 とかなんとか考えながらも手を動かしていたら、うどん完成。

 普段、コンビニでお弁当やスーパーのお惣菜を買ったりして食事を済ますことも多いけど、こうやってうどん作ったり、簡単な自炊ならちょいちょいやってるから、それなりにささっと作れるのである、えっへん。


 とは言っても、誰にでも作れるような、ごく普通の地味なうどんだから、そこまでいばれないんだけど。


 鍋からどんぶりに移したほかほかのうどんを、どんっとお兄ちゃんの前に置く。



 「…ありがとう」



 差し出したお箸を手に取ったお兄ちゃんはお礼を言ってくれたあと、そのままジッと、どんぶりの中のうどんをみつめている。

 まるで、初めて見る摩訶不思議なものを目の前に出されたときのように。


 …あれ、なかなか食べないぞ。

 お腹すいてるんじゃなかったの?

 え…もしかして、私の作ったうどん、あんまりおいしそうに見えないとか…?


 ただ、うどんを見つめてばかりいて、まったく箸をつけようとしないお兄ちゃんを私はみつめながら、なんだか心臓の鼓動が変にバクバクするのを感じる。

 

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