5-2
「はい?」
「いや、君は俺のことを『お兄ちゃん』と呼ぶべきだろうと思って。
なにせ俺は君の『お兄ちゃん役』なのだから。
別に名前で、『犬彦』と呼んでくれてもいいが…それはあまりスタンダードではない気がする」
「ああ、うん…」
確かに、そうだ…よね。
妹は、自分の兄のことを名前でではなく、『お兄ちゃん』と呼ぶ。
確かにそれが一般的だと思う。
だけど、私はそのとき、ためらってしまった。
彼のことを「お兄ちゃん」と呼ぶのが嫌だったわけじゃない、ただ、生きている誰かに向かって、そう呼びかけることなど、私には一生あるはずがないと思っていたのに、いま急に、あるはずのないことが現実となっていたから、それに頭が追いついてなかったんだ。
それでもって…「お兄ちゃん」って、誰かに向かって実際に口に出すのが、もんのすっごく恥ずかしいことのように思えてきちゃったから。
自分から「お兄ちゃんになって」って言いだしたくせにね。
「美桜、呼んでみて」
そんなモジモジしている私にむかって、さあ来い、みたいなカンジで彼がじっとみつめてくるので、しばらく口ごもっていた私はついに諦めて、そっと彼へと呼びかけてみた。
「…お兄ちゃん」
ぼそっと、けっこう無愛想につぶやいちゃったんだけど、一回声に出してみたら、わりにたいしたことはなかった。
むしろそのあと、ちらっと彼へ…お兄ちゃんへと視線をやったとき、やさしく微笑んでいるその姿を見てしまったときのほうが、心臓が痛いくらいにグッときた。
このとき私は初めて、常に落ち着いていてポーカーフェイスとも言えるくらい、あまり表情を変えることのなかったお兄ちゃんの、笑顔を見たから。
「ん」
呼ばれたから、みたいな体で一度こくりとうなずくと、お兄ちゃんは次にこう言った。
「それでは次の行程に移ろう。
美桜、何か大きめの空いている箱はあるだろうか、それがあったら貸してほしい」
「大きめの箱? うーん、あるかもしれないけど、何に使うの?」
本当に彼は、目的さえ決まれば、話をさくさくと滑らかに進めていく人だった。
いきなり大きな箱を用意してほしいと言われても、まったくその意図がわからなくて私が首をかしげている一方、お兄ちゃんはといえば、実に落ち着いた様子でお茶をひとくち飲んでいて、それから、ちらりとその視線を、冷蔵庫の横にある中古のガラス食器棚の方へ向けた。
「あの写真に写っているのが、君のお兄さんだな」
そう言って彼が…お兄ちゃんが見ているのは、食器棚の一番上の段に飾られている写真立てだった。
そこには、変わらない笑顔で赤ちゃんのまま存在し続ける、私の本当のお兄ちゃんが写っていた。
「今、君の兄であるのは、この俺だ。
俺が君の兄である以上、彼にはしばらくの間、申し訳ないがここからご退場いただかなくてはならない。
いいか? 君に、二人の兄はいない。
兄という存在は、君にとって一人だけ。
君は、兄として俺だけを見るべきだ、よそ見はよくない。
だから彼に関する持ち物は、一時的に大きな箱にまとめて、全てしまっておこう。
これは精密なシュミレーションを遂行するために、必要なことだ」
「…うん」
きっぱりとそう言われてしまうと、このお兄ちゃんの説得力はものすごくて、そうか…確かにそうかも、って自然と思わされてしまう。
お兄ちゃんに関わる物を、すべてしまう…。
これまで私は、生まれてきてからずっと、死んだ兄の遺品に囲まれて育ってきた。
それが私には当たり前のことだったので、写真やその私物を、片付けようとか考えたことが一度もなかった、そんなの少しも思ったことがなかったのだ。
そう思いもしなかった理由は、母の存在も大きかったとは思う。
もし兄の遺品を下手にいじったりでもしたら、母は発狂して怒り狂うもんだと、自然と思い込んでいたから。
だから、そんなことは絶対にやっちゃいけない。
私にとって、兄の遺品をどうこうすることは、まさに道端に佇むお地蔵さんに泥をかけるのと同じくらいに罪深い最大の禁忌であり、今までに想像すらしたことのない禁断の行為だった。
だけど、そんな罪深い私の行為を目撃し、咎めるべき母は、ここにいない。
様子をうかがうようにして、じっと私をみつめている彼…お兄ちゃんの言うとおり、この『お兄ちゃんシュミレーション』が終わるまでは、本当のお兄ちゃんを思い出させる品々は、一時的に封印しておいたほうがいいよね…。
だって、私の目の前にいるこのお兄ちゃんこそが、死んだお兄ちゃんが生きていた場合の代わりであり、今はこのひとこそが、私の死んだお兄ちゃんなのだから。
決心した私はイスから立ち上がると、ちょうどいい空き箱を探しはじめる。
…しかしまあ、今振り返っても何というか…。
ホントあの彼…犬彦お兄ちゃんが発する言葉は、いつだって私に対して強い力を発揮したものだった。
穏やかな涼しい声でささやかれる、端的な言葉。
それ自体は決して強い言葉でもなければ、強引な響きもなく、むしろこちらを気遣ってくれているのが分かる、優しいものだったのに。
それでも、抗うことの出来ない絶対的な真実の力があった。
なんというか…たとえ本来なら躊躇ってしまうようなことでも、彼の言葉が私に寄り添ってくれる、君なら大丈夫だと、自然と一歩踏み出させてくれている。
この道の先は崖だと思っていたのに、彼がそうやって私を当たり前に導くから、息を飲んで足を踏み出してみたら、飛行機がふわりと上昇するときの感覚で、気がつけば空の中を歩き出していた、…そんなカンジ。
びっくりして振り向けば、彼はにっこりと微笑んでくれる。
私のすぐとなりで、当たり前みたいに。
そんな不思議なひとだった。
やれやれ、迷いなく自然と他人をその気にさせるお得意の才能を駆使して、スーパーとかによくいるような試食販売のセールスマンでもすればよかったのに、彼。
そしたら、そのイケメンぶりも作用して、ばんばん儲かっただろう。
口数は多い方ではなかったし、愛想もあるわけじゃなかったけれど、人を惹きつける魅力があったから。
空虚な青空の中で、ひとり不安に思って立ちすくんでいるとき、そっととなりで手を握ってくれるような、彼独特の、あの雰囲気が。
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