4-2

 そして私は、その兄に一度も会ったことがない。

 なぜなら兄は、私が生まれる前に、死んでしまったから。


 乳幼児突然死症候群とかいうやつで、赤ん坊だった兄は、1歳にも満たないうちに死んでしまったそうだ。

 で、その兄の死のあとに生まれたのが、この私というわけ。


 だから実質、やはり私は一人っ子なんだけど、それでも私の育ってきた環境の中には、いつだって兄の存在があった。

 一度も出会うことはなかったけど、兄の存在はいつだって私のそばにあり、そして兄は私よりも存在感のある人物だった。


 実際に出会ったことはなくても、兄の姿を、物心つく頃には、私は毎日目にしていた。

 常に家の中には、笑顔で母親に抱っこされている赤ん坊の兄の写真が、あちこちに飾られていたからだ。


 もちろん兄の存在の痕跡はそれだけじゃない、兄の持ち物(男の子用の赤ちゃん服だとか、おもちゃ、食器など)も当たり前にいつまでも家中に置いてあった。

 そういった兄の私物は、年齢を重ねていく私の持ち物よりも、もしかしたら多かったかもしれない。


 そうした家中のあらゆるものが、無言のままでも、私に兄という存在を常にアピールしてくる。


 でも、私の兄の存在を私へ伝えてくるのは、もちろん彼の写真や残された持ち物だけじゃない。


 記憶と言葉。

 母がいつも口にするのは、死んだ兄のことばかりだった。


 私の母はいつも同じことを延々と話すので、私は語り聞かされた内容を、完璧に覚えている。

 (死んだ人間の情報は新しく更新されることがないので、どうしてもその内容は繰り返しになってしまうのだ)


 いかに兄が唯一無二の可愛い赤ん坊であったか、その笑顔がどれほど天使のように愛らしかったか、私とは違って夜泣きもあまりしない良い子だったとか、そんな過去の思い出から、あの子がもし今も生きていたなら、どれほど聡明で優しくて将来性のある子に育っていただろうという未来予想図まで、ありとあらゆる、私が永遠に会うことのない兄についての話題を、幼い頃からひたすら聞かされてきたから。


 家という密室で、母と二人きりで過ごす幼い頃の私は、毎日毎日、それを聞いて育ってきた、だから、門前の小僧習わぬ経を読む、じゃないけど、一度も会ったことのない兄について、私はとても詳しい。


 今より脳みそがずっと柔らかかったせいだろうか、兄という人物の思い出について、ほぼ一字一句暗記してしまった私は、延々と同じ話題を繰り返し話す母の最後の締めの言葉も、しっかり覚えている。

 

 幼い私に、いつも母はこう言っていた。


 あの子が亡くなって、しばらくしてから自分の妊娠を知ったとき、このお腹の子は、あの子の生まれ変わりに違いない、だから男の子のはずだって、そう思っていたのに、まさか女の子だったなんてね…。


 迷惑そうな、悲しそうな、困ったような、そんなものが混ぜこぜになった目で、母は私を見ながら、飽きずに(今も)繰り返しつぶやく。


 あーあ、そりゃあどうもすみませんね、別に私も好き好んで生まれて来たわけじゃないんですけど。

 てか、こんなこと言われて私はどうリアクション取ったらいいわけ? 兄の生まれ変わりじゃなくてゴメンナサイとでも謝りゃいいっての?


 …てなカンジで、高校生になった今なら、感情的になることもなくこう言い返せるけど、幼い頃は私もまだピュアだったものでございますから、母に対してとても申し訳ない気持ちになったものだ。


 私が女の子に生まれちゃったから、お母さんを悲しませているんだ、私は悪い子なんだ、ごめんなさい…なんて、かわいい素直な子供の時分には思ったりしたわけですよ。


 ま、私も知恵がつくにつれて、自分の母親はこういう調子の人なんだから、どうもこうもないって、理解していくわけなんだけど。


 私にできることは…こういう母親を持った子供にできることは、ただそういう人なんだから仕方がないって、現実を受け入れることだけだ。


 いかに死んだ兄は可愛い赤ん坊であったかを語っているときの母は、とても幸せそうだった。

 しかし、その兄との美しい思い出話を一通りしゃべり終わってしまうと母は、この世のすべての不幸を背負ってしまったかのような重々しい雰囲気の女に戻ってしまう。

 (実際、赤ん坊を亡くしてしまった母は、不幸な女なわけなんだけれど)


 そういったわけで、そんな母親に生まれてからずっと育てられた私は、出会うことのなかった兄の存在を意識せずにはいられなかった。


 無邪気に笑う赤ん坊の兄の写真をみつめながら私は、ここにお兄ちゃんがいてくれたらいいのに、お母さんの言うとおり、やさしくて頭のいいお兄ちゃんがいてくれたなら、お母さんはこんなに悲しい思いをしなくてすむのに、…なんて、会ったこともない死んだ兄の帰還を、幼い頃にはバカみたいに望んだりしていた。


 そして兄という存在の欠如は、それだけじゃなく、当たり前かもしれないけれど、私の家族全体に暗い影を落としていた。


 私が生まれてくる前…つまり兄が生きていた頃まではどうだったのか知らないけど、父と母は、子供の私から見ても、あまり仲のいい夫婦ではなかった。


 さすがに私の見ている前でははっきり口に出さなかったけれど、二人は兄のことで言い合いになることが多かったからだ。

 

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