2-3

 仮に、いきなり目を覚ました男に襲われた場合、すぐに逃げられるくらいの距離はキープしつつも、その男の顔が今度ははっきりと見えるほど近くまで、私はそっと歩み寄った。


 ボロアパートの周囲は、いろんな飲み屋が入ったテナントビルが密集しているので、それらのネオンの光が、塀の角で薄暗いこの駐輪場であっても、その輝きを分けてくれるおかげで、男の顔は、まじまじと確認できるくらいにはよく見えた。


 うつむきがちのせいで前髪が顔に影を落としているけれど、わかる。

 静かに閉じられたまぶた、その黒いまつげは長めで、彼の白い肌によく映えて見えた。


 寒いからなのか青白くさえ感じる彼の顔は、すべらかで、女の子たちが嫉妬するくらい綺麗な肌をしていた。(私はちょっと不摂生をするとすぐニキビができてしまう体質だったので、ほんと羨ましかった。)

 それで思った、肌質の透明感からいって、たぶんこの人は、10代だって。


 それからスッと通った形のいい鼻筋に、ぎゅと閉じられた唇も、よくみる雑誌の読モの女の子たちより美しい、少女のそれのようだった。

 まあつまり…彼はなかなかのイケメンだったのである。


 だからこのあと、いま振り返って考えてみても自分自身が信じられないくらい、私があんな大胆な行動をとってしまったのは、彼のイケメンっぷりもその理由のひとつであったことは、素直に認めておく。


 でもこのときの私が、彼の顔を見て驚いたのは、ぴくりとも動かないその男が、想像外のイケメンだったからだけじゃない。

 顔を見たことで、彼がここに倒れている原因を理解したからである。


 見事なまでに美しい形をした彼の唇は、切れているらしく、口の端に血を滲ませていた。

 ほお骨のあたりにも青あざや、擦り傷がある。

 青白い肌に浮かぶ、赤黒い血の色や、不吉な染みのように見える青あざが、とても痛々しい。


 彼は、濃いカーキ色のミリタリーコートを着ていて、色のあせたジーンズにブーツという格好だったんだけど、それらは所々に土のようなものの汚れが付いていた。


 …この人、誰かに殴られたんだ。


 場所柄、この辺りではケンカも多い。

 深夜になると、男性同士の怒鳴り声がどこからか聞こえてくるのも、いつものことだ。


 もちろん皆は、そんな争いごとがあっても、見て見ぬ振りをする。

 騒動がひどくなれば、誰かがそのうち警察を呼ぶだろうと、そのままやり過ごすのが、ここに暮らす者たちのやり方だ。


 わかった、わかった、つまりこの男はケンカして、ボコボコにやられて、それでここに逃げ込んできたってワケね。


 しかし困ったな、ただの酔っぱらいであるなら、このまま放置しておくんだけど、このひと怪我人なのか…まあ自業自得っぽいけど。

 だって一方的な被害者であるなら、隠れるようにして、こんな駐輪場の陰にひそんでたりなんかしないでしょ?

 そもそも大学生でありながら、こういう繁華街へやってくるくらいには、やんちゃな人ってことなんだろう、こんなところにうずくまっている彼は。


 しかし、それにしても…どうしよっかな…。


 一時的に疲れのせいで寝てるだけなら、放っといてもそのうち勝手にどっかへ行くだろうけど、もしこれが、意識不明の重体、みたいな状況だったらさすがにまずいよね…。

 このまま死んじゃったりしたら、めっちゃ気まずいし、うちのアパートの敷地内でとか、ちょー迷惑…。


 どうしよう、声をかけた方がいいのかな?

 でも変な男だったらヤバイし…。


 なんだか眠り姫みたいに目を閉じたまま、ピクリとも動かない男を、少し離れた位置から見下ろし、私はうーむと考えを巡らせていた。

 そのときだった、アパートの敷地の外、路地の先、遠くの方からこちらへと近づいてくる、集団のガヤガヤとした声が聞こえてきたのは。


 わりかし治安の悪い場所に住んでいると、本能的に理解できる、身につく能力がある。

 絶対に近づいてはいけない、目を合わせてはいけない人種が、一瞬でひらめくように分かるのだ。


 そして、そういうタイプの連中が、こっちに近づいてきている。


 ヤバイ…! 絶対関わっちゃいけない、早く逃げないと!


 いつもだったら、速攻で私は自分のうちの中に入っていただろう。

 だけどそのときは、そこに立ち止まったまま、足が動かなかった。

 自分でも勘が鋭いほうだと思ってる私は、さらにピンときてしまったから。


 荒々しくて下品な大声で悪態をつきながら、数人でうるさくやってくる男たちは口ぶりからして、どうやら誰かを探しているらしい。

 さらに私の後ろで、駐輪場の隅っこの壁にもたれかかり、それまでピクリとも動かなかった彼が、男たちが立てる喧噪を耳にして、苦しげに少しだけ身じろぎをした、まるで、すぐにでもここから逃げ出そうとするみたいに。


 あいつら…この人を探しにきたんだ…!


 もうすぐその荒々しい集団は、このボロアパートの前の道路をやってくるだろう。

 急いで後ろをふりむくと、駐輪場の彼は相変わらず動かない、逃げたくても奴らから食らったダメージのせいで、これ以上動けないのかもしれない。


 男たちがやってくる道路の向こうと、私の背後に倒れている彼を、数回交互に見比べてから、どうしよう、私はどうすべきだろうかと、かなり焦ったことを覚えている。


 面倒事には巻き込まれたくない、私は女だし、第一私はまったく関係ない、それなのにこんなところにいたら、この後の状況次第では私までかなり危険な目に遭うかもしれない、そんなの冗談じゃない。

 だけどこのままじゃ、男たちの誰かが通りすがりにこちらを…アパートの敷地内をちらりとでも見たら、駐輪場で倒れている彼の姿が、その角度によってはバッチリと視界に入って、みつけてしまうかもしれない、そしたらこの人…いま以上にもっとボコボコにされて、そして、ヘタしたら死んじゃうかも…。

 

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