とある若い男女のはなし re、3
武井さんの前を一メートルほど先行して歩く、ときおり振り返ると、ぎこちない笑顔を僕に返してくれる。
「武井さんはお仕事されていますか」いい加減、無言のまま彼女のぎこちない笑顔を見続けることに抵抗を感じ、差しさわりのない話題をふることにした。
「保育園で働いてます」
「保母さんですか」
「いまどき保母さんなんて、デリカシーがないですね」と武井さんは呆れた。
「あっ、保育士さん、ですね」と僕は頭を下げる。自分の常識の無さを痛感する。こういったミスは良くあった。バイトでも、他人とのコミュニケーションでも言葉のあやという、単純でいて取り返しのつかないような言動が多々あった。もしかすると、自分のこういった能力のなさが生き辛い原因となって返ってきているのかもしれない。
「間違いじゃないけど、そういう認識なんだなって思われちゃいますよ。男尊女卑とか」
「でも、保母さんって僕は良いなって思います。保育士さんは男女分け隔てなく仕事として、役割として子供を見るべき職業だって意味なんだろうけど、保母でも、もちろん保父でもいいけど人の子どもを我が子のように見守ってくれる人、って感じがして温かいんです」
「水木さんも保育士さん?」
「自分はただのフリーターです」僕は苦笑いする。
「じゃあ子供が好きだったり?」
「はい、大好きです」
「じゃあ将来は子沢山ですね」
「それはどうかなぁ」武井さんの言葉で、急に現実へと引き戻される。明日を生きていくのも厳しい僕に、将来などみえない。
「あ、そっか私と同じで恋人がいないわけだ」すこし心をひらき始めたのか、武井さんは冗談を交えた。
「そんな悩みだったら、まだマシです」
「そーね、私の悩みなんて所詮そんなもんですよね」
「あ、いや、そうじゃないんです」と僕は遅れて気付く。やはり僕にはコミュニケーションというのが苦手なのかもしれない。気まずい雰囲気が漂い、また二人は無言の時間を過ごした。
僕と武井さんは家に到着した。自分の部屋の前に立ち、ドアに張り紙があったことにいまさら気が付いた。誤魔化しようのない光景に、僕はただ俯くだけだった。
「さっきは、ごめんなさい」と突然、武井さんが謝ってきた。「大変な事情があるだなんて知らなかったから」
武井さんはドアに貼られていた、『滞納は犯罪です』の張り紙を見て、笑うでもなく悲痛な表情で僕を見ていた。同情を買う、とはこの事だろうか。なんとなく僕のいたらない点が浮き彫りになり始めて、仕方のない事だと諦め始めていたところに、輪をかけて同情を買われると、笑うしかないように思える。
「自分で蒔いた種ですから。こうやって花開いたとも言えます。ちゃんと働いてたんですけどね、ちょっと病気で入院してたら、いつの間にかこうなっちゃってて」
「また一から始めればいいじゃないですか」
「家賃とか、水道光熱費を払ってからじゃなきゃ、スタート地点には戻れないですよ」
「そう、ですか」
僕はドアを開け部屋に入る、「ここで待っててください」と僕は先手を打つ、若い女性が見ず知らずの男の部屋にうながされるなんて、きっと嫌だろうな、と思ったからだ。流石にそれくらいは僕にでも分かった。
部屋に入ると床に転がったあの手紙を見つけだす。テーブルの上で丁寧に紙を広げ、圧し伸ばしていく。
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