とある若い男女のはなし re、2
「なんだこれは」僕は腹立たしくなり手紙をぐしゃぐしゃに丸めて床に投げつけた。「人を馬鹿にするのも、いい加減にしろよ」
それが誰に対しての怒りなのか、僕には分からなかった。世の中は一生懸命頑張った人だけが救われる訳じゃない。何もしてなくても上手くいく人だっている。たとえば金持ちの子どもとか、裕福な家庭に生まれればそれだけで救いがある。自分が不幸なのは自分のせいなのか、親のせいなのか、世の中のせいなのか、答えは本当にこの中にあるんだろうか。
僕は布団に寝転がり、鬱々としているうちに、いつの間にか眠り込んでいた。
そして、僕は不思議な夢を見た。見覚えのある河川敷で、誰かがうずくまり泣いていた。泣き声や顔を見ているわけでもないのに、泣いていることをなぜか確信していた。
「どうしました」と後ろから声を掛けてみた。ふわふわとした風や香りも感じない世界で、自分の声が頭の中だけで響いている。
「えっ」
そこで目が覚めた。僕の心も、『えっ』と言いたかったろう。どうにも中途半端で意味ありげな夢の覚めかたにモヤモヤとしたものが寝ぐせのように頭にこびりついて離れなかった。窓の外に目をやれば薄暗く明け方のようにも夕暮れのようにもみえた。時間軸のはざまで迷っている、このまま何処かに一人で飛んでいければいいな、などと空想をおもい描く。
僕を現実に引き戻すように喉の渇きが胸のあたりから叫び出す。思えば昨日の夜からなにも口にしていなかった。蛇口をひねっても水は出ず。トイレにも行けない、シャワーも浴びることが出来ない、家というのはくつろげる空間のはずなのに、ライフラインが止められることで牢獄よりも居心地が悪くなったように思える。
僕はくつを履き、着の身着のまま家を出た。目的もなく家を飛び出せばそれは家出も同然で、僕はあの家に生きていく希望を見出せなくなってしまった。自分なりに頑張ってきたけれどそれをずっと見守っていてくれる神様なんていない。自分なりの頑張りなんて誰も評価してくれない。
人はそれを甘えだと批難する。この世界は、誰かに自分を認めてもらえなければならない、とても生きにくい世界だ。
無意識に歩き続けた僕の足は、いつの間にか夢の中に出てきた河川敷にたどり着いていた。土手の上から辺りを見渡した。太陽が徐々に昇りはじめ、黒く沈んだ川面にキラキラと宝石を散りばめていた。もしも、僕の気持ちが晴れやかで、穏やかで、充実した休日の朝であったとしたら、この光景は清々しい日常の一コマであったに違いない。
土手の下に、やはりうずくまった人の影を見つけた。あぁやっぱり居たんだ。と不思議と納得してゆっくりと河川敷へと僕は下って行った。
「どうしてこんなに辛くて苦いことばかりなんだろうね」僕は思いもがけない言葉が自分の口から発せられたことに、驚いた。
「えっ」うずくまっていた女性が振り向いた。長い髪が波うち、しなやかに揺れた。太陽の光を吸収して眩しいくらいに輝いている。
「どうしてだか分からないんですけど、もう何度となくつらい経験をしてきた気がして、むしろ達人になった気分で、共感したっていうか、心配したっていうか」女性からしてみれば苦し紛れの言い訳に聞こえたかもしれない。まだ二十六歳の自分がいったいどれほどのつらい経験をしてきたんだと訊ねたくもなるだろう。
「不思議な、人ですね。私なんて、ただ恋人に振られてここで泣いてるだけの、寂しい女ですよ」彼女は目元を指先で拭うと、立ち上がった。「お散歩中に見苦しいものをみせちゃってごめんなさい」
「散歩中ってわけじゃないんだけど」僕は自分の姿を改めて見返す、昨日のままの服装で寝たため、洋服にはシワが寄っていた。これじゃ外出というより彼女の言う通り散歩中と評した方がしっくりくる。
「こんな朝早くからお出かけですか?」彼女は儀礼として、質問したようだった。特に興味があるわけでもなさそうだったので、「ちょっと、ね」と僕は濁した。
もう行く当てもない、この世にいる意味すらない状況で、正直な気持ちも伝えられないことに、気持ちがさらに沈んでいく。
「でも、なんだか声を掛けてもらってスッキリしました。悩んでたり、苦しんでいるときって話したくても話せる相手がいないと自分でため込むしかないじゃないですか。そんなときに、いきなり話しかけられたからその勢いで振られたことを話せました。ありがとうございます」彼女が小さくお辞儀をする。僕の返答次第では、このまま別れてしまうような雰囲気になっていた。
「あ、あの」どうせ後悔するなら、正直に話して後悔すればいいと僕は意を決した。「今朝、不思議な夢を見たんです、てか、昨日の夕方からおかしいって言うか、変なことが続いてて」
「変なこと?」
「変な手紙が届いてて、僕が火事に巻き込まれて死ぬって」
「不幸の手紙」彼女がボソッという。小学生の間で流行るようなキーワードめいた呟きだ。
「その手紙が届いて直ぐに寝ちゃったんですけど、この河川敷で、貴方が泣いている夢を見たんです。ホントです、嘘じゃないんです」
彼女はただ一点、僕の目をじっと見据えて真偽を見極めているようすだった。まじまじと女性から見つめられることがなかった僕は恥ずかしさのあまりに目を逸らしてしまった。
「それで、ここに来たんですか」確認のため、という感じで彼女は僕に訊ねた。
「はい。しかも手紙にも気になる事が書かれてて、火事で死ぬのは僕ともう一人、武井夏美さんって方らしくて」僕が名を出したとたんに、彼女の表情は一変した。恐怖におののいた、というべき顔だった。
僕は慌てて、首を振った。「あの、火事に関わらなければ死ぬことはないって、書いてありましたから、必ず死ぬわけじゃないって言うか、ちょっとよく分からなくて」
「武井夏美は、私の名前です」
「僕の名前の水木冬夜も手紙には書いてありました」
僕たちはしばらく沈黙し、視線をさまよわせた。彼女は僕の話を信じるべきか思案しているようすだ。僕は僕で、あの手紙の異質さを、今更ながらに感じだした。
彼女の名前が一致したとたんに、自分の中で信ぴょう性が高まり、信じてみようかという気持ちすら芽生えてきた。そして、手紙の内容を思い出そうと試みて、挫折する。いたずらだと決めてかかったので、書かれていた氏名以外の内容をまるで覚えていなかった。
「ちょっと帰って手紙の内容を確認してみます」僕は踵を返してきた道を戻ろうとした。
「私も付いていっていいですか?」思いもよらない言葉が武井さんから告げられた。
「信じるんですか? 僕の言ってることを」
「信じられないから、行くんです」
「分かりました」
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