第3話 人魚の屑

 どうすんのよ、と、思わず声を荒げた。自分の怒りの大きさに、自分でびっくりした。それでも、一度表出してしまった感情は、坂を転げ落ちるように、さらに大きくなる。どうすんのよ、それ。


 洗面器を隠すようにしながら、夫はきまり悪そうに、こちらを見ている。でも、もう、私はその中身を見てしまったのだ。その洗面器の中には、人魚がいる。鯉より少し小さいぐらいのサイズの、人魚が。


 夫は私の目を見ずにうそぶく。子どもの情操教育にいいかなと思って。


 え、と私の口から声が出る。私の中の怒りがますます大きくなっていくのがわかる。や、それ思いっきり嘘だよね?自分が飼ってみたかっただけだよね?そこで子どもダシにして、嘘つくんだ?


 いや、嘘ではないつもりなんだけど……と夫は口ごもる。私は天を仰いだ。


 人魚。人魚は本当に世話が面倒くさい。正確には、面倒を見ること自体は、あまり手間がかかるわけではない。問題はその屑だ。水替えの際に屑が出るのだけれど、屑を普通の家庭ゴミとして出してはいけない決まりになっているのだ。毎回毎回、水替えごとに人魚の屑を貯めて、なんらかの処置をするのだ。多分、私が。


 さらに「もとのところに戻してきて」と言うこともできない。人魚は知能が高いため、自分に接触した相手をきちんと覚えている。そんなことをするのは「かわいそう」なのだ。つまり、いったん家に連れて帰った以上は、きちんと責任をとって飼わねばならない。


 私、お世話するつもりないからね。


 そんな子どもっぽい台詞が、思わず口からこぼれた。なんだか、とても気恥ずかしくなる。自分の中でまだ燻っている怒りとないまぜになり、いたたまれなくなってしまって、コンビニ行ってくる、と家を飛び出した。



 わかってはいる。人魚が悪いわけではないのだ。


 人魚は本当に魅力的な生き物だ。亜麻色の髪は濡れていても乾いていても美しい。特に、水中で金の絹糸のように柔らかに広がる様子は、女の私でもうっとりさせられる。上半身は精巧な人形のように見える。きめ細やかな肌。小さくともどこもかしこも整った顔。それが、真珠色の鱗に包まれて、水の中を自在に動くのは本当に幻想的だ。


 人を恐れない人魚になると、満月の夜に歌をうたって聞かせたりしてくれるらしい。そんな素敵な生き物、それは見つけたら自分の側に置いておきたくなるのはわかる。


 私が腹を立てたのは、私に内緒にしようとしたことや、こっそり私に責任を負わせようとしたことだ。人魚は悪くない。



 手ぶらで帰るのもおかしいので、コンビニで、特に必要のない食パンを買う。レジでお会計をしてもらっていたら、バイオハザードマークのシールがレジに置いてあった。


 えっ、と思って見ていたら、レジの女性が、ああ、最近多くてね、と、何でもなさそうに言った。見透かされたように声をかけられて、私の方が驚いた。私はよほどシールを凝視していたらしい。


 女性は続ける。ほら最近特に厳しくなってね。みんないろいろ飼ってるでしょ?鳳凰とかコカトリスとか人魚とか。だから、ね。こうやって分かりやすいところに出しておこうと。


 にんぎょ、と繰り返した私に、女性は、そう人魚とかね。あら、人魚飼ってるの?と尋ねてきた。飼ってる、というか、飼い始めたというか。あの、夫が無理やり。唐突に、突っ込んだやりとりが始まってしまって、しどろもどろになりながら、私は答える。コンビニの中には、私以外お客はいないらしく、レジの女性はのんびりと、あらー旦那さんが。それは大変ね、と会話を続けてくる。飼うときはいいんだけどね、なかなかね、本当の、実際の世話がね。


 そう言われて、そうなんですよね、と答えようとしたのに、なぜだか突然、両の目からぼろぼろと涙がこぼれはじめた。恥ずかしい。でも止まらない。やり方とか、全然知らないのに。ずっとお世話しなくちゃいけないのに。私も忙しいのに。当たり前みたいに。夫が。勝手に。そんなことをとりとめなく考えてしまう。


 レジの女性は、私が突然泣き始めたので、あらあら、大丈夫?大丈夫?と動転してしまった。当たり前だ。大の大人が見知らぬ人の前で泣くだなんて。


 女性は、なんとか私のことを慰めようとしてくれている。旦那さんがいけないのね。甘えてるのね。それはよくない。よくないわ。女性は背中をさすってくれる。申し訳なくて、泣きやみたいのに、涙がいつまでも止まらない。店内に人がいなくてよかった。


 女性は続ける。命を預かる、って、大変なことだからね。それは、旦那さんの責任なのだから、きちんと旦那さんに返してあげなさい。人が負えるのは自分の荷物だけよ。大丈夫。あんまり背負いこみすぎないでね。私はしゃくりあげながら、ただ、ありがとうございます、と言うことしかできなかった。



 目がまだ赤くないか、変ではないか、と玄関の鏡で確認しながら、リビングに入る。夫はソファーで、何かの動画を見ているところだった。私に気づいて、多分、できると思う、と言った。


 夫の手元を覗きこむと、人魚の飼い方についての動画だった。屑の処理もやってるんだよ。他のもいろいろ見てるんだけど。夫は動画の画面から目を離さずに、そう答えた。


 私は夫に、さっき買ってきたシールを手渡す。屑、最後にゴミに出すときに、これ貼るんだって。夫はやっと顔を上げて、ありがとう、と言って受け取った。


 テーブルの洗面器の人魚が、尾で優雅にぱちゃりぱちゃりと水音を立てている。人魚は、ややけだるげな眼差しで、こちらを、私と夫を見ている。なんだかんだで、やはり目を惹きつける、美しい生き物だ。そうやって眺めていると、真珠色の尻尾に、まだ新しい、生々しい大きな傷がついていることに気がついた。


 ああ、だから夫は連れて帰ってきてしまったのか。確かにそうだった。この人もこういう人なのだ。つい背負いこんでしまう人なんだった。


 あんまり無理なようだったら、引き取ってくれる人を探そうか、と私が声をかけると、傷のある人魚を、好きこのんで引き取る人はいない気がするよ、と夫はさみしそうに答えた。だから自分が、と思ってしまったのか。生き物の好きな、優しい人なのだ。そういうことも思い出した。


 じゃあ、大きい水槽がいるね。どこにおこうか。エアーポンプとか、温度を調節するものなんかはいらないの? 夫の表情が少し明るくなった。水槽があれば充分。水の塩分を海水に近づけておく以外は、あまり調整はしなくてもいいらしいよ。でも、できるかぎり、元の環境に近い形にしてあげた方が、人魚にとっていいらしい。


 そうなんだ。じゃあ私もあなたの出張に備えて、少し知識つけとかなくちゃね。お勧めの動画ある? あの子でもお世話できそうなの? できると思うよ。分かりやすいのはこれでね……。夫は嬉々として、動画をいくつも教えてくれる。


 相変わらず、人魚は私たちを見ている。その小さな両の目は深い青の色をしている。豊かな深い海の色だ。その蠱惑的な美しさに見入っていると、人魚は大きくぶるっとその身を震わせた。たちまちのうちに、洗面器の底に屑が溜まる。なんだかおかしくなった。やはり、生き物は一筋縄ではいかない。



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