空白

ぱん

空白

 この空白を埋めるための感情を求めよ――


 水面に落ちた雫が波紋を広げるように、小さなきっかけが今では随分と大きくなったものだ。


「――いけーッ!」


 掠れる喉を押さえて、咲奈さなは野球部に声援を送る。

 胸元まである緩巻きの長髪、コロコロと変わる表情、常に綻びを見せる薄い唇。

 ちょっとずつ日焼けしてきた肌はほどよく健康的な美少女を作り出していて、クラスではちょっとした人気者だ。告白を受けたという話は少なくなく、高校に上がってからというもの、著しい成長を見せる一部のせいもあり、思春期男子の多くは彼女に目を奪われているのだろう。


「……」


 僕は違うが。

 そんな彼女はフェンスを握りしめ、大多数の応援団に混ざり、野球部の交流試合に来ていた。付き添いとして数歩離れたところで静観しているのが、この僕であった。


「ねえ、むーちゃん! 応援!」


「はいはい……」


「やる気ないのダメ! ほら次、清水しみずくんだよ? これで勝ちが決まるかもなのにっ!」


「……まあ、三振しないように祈ってるよ」 


「そこはホームラン一択でしょ!」


 振り返って、ねっ、とウインク決める眩しい幼馴染みに目を細め、ため息を吐く。

 このため息は重たい。何を隠そう、面倒くさいという感情の一部を吐き出したからだ。少しだけ軽くなった気もしない猫背を伸ばし、ホームベースに立つ丸坊主に視線を投げる。


「……清水」


 口を衝く彼の名を、何とも思わず霧散させる。

 咲奈の瞳は清水一色で染まっている。何が彼女をそこまで駆り立てたのかは知らない。

 でも、かっこいいんだ、とただその一言で、あの丸坊主を表した時の彼女の輝く瞳はどうしてか忘れられなかった。

 何も思ってない。

 幼馴染みだから、腐れ縁だからと、こうして野球部の応援に貴重な休日を消費されているだけ。何をするでもない休日ルーティンを見抜かれて駆り出された先で、僕だけが知っている叶わないその恋を、僕はただ諦観させられていることに、何も思うことはない。

 ただ。


「……あの先は職員室、か」


 バットを構える直前、彼はピッチャーでも、監督でもなく、グラウンドの外――校舎へと視線を向けていた。

 応援団ではない。ましてや、咲奈でもない。

 そこは、南校舎二階――ちょうど職員室だけがあるそのフロアに、彼は毎イニング一瞥をくれて、勝負に挑む。まるで授業参観で親が気になって何度も教室の後ろを振り返る少年のような無邪気さは、彼の光がそこに在ると言っているようなものだった。


「……」


 咲奈はまっすぐ彼を見つめている。もう僕を気にすることもしないようだ。

 最終イニング。走者はゼロ。1―1の同点で迎えたこの回、清水が出塁し、ホームに帰ってくれば勝ち。ホームランを打っても勝ち。3アウト取られれば引き分けとして終わる試合で、あいつの性格上、安全策など取らないのはわかっている。

 最終裏の次はない。あいつは監督のサインなど見ず、ただピッチャーに集中していた。


「……本来なら、仲間に任せるべきだ」


 でも、ここで望まれているのは――咲奈が望むのは、清水が勝ち取る一点だ。

 同様に、清水もここで一点をもぎ取ろうとするだろう。

 彼にとって特別な観客がそこにいるから。

 届きそうで届かない、星の輝きが。


「まるで同じだな。僕も、お前も――」


 伸ばした手を払うように、軽い金属音と共に打球が大きく曲線を描いた。

 耳をつんざくような歓声が上がる。


「見た? ねえ、むーちゃん!」


「見たよ、すごいなあれ」


「清水くんは今年のエースだからねっ!」


 ふんっ、とフェンスにボールが突き刺さった瞬間、勝利を祝う声に混ざって、咲奈が腰に手を当てて胸を張った。

 嬉しそうだ。他人の勝利を喜べる純粋な子は、彼女以上に僕は知らない。

 ホームに帰ってくる清水を追って、手を振る。他の女子もキャーキャーと叫んで、黄色い歓声を持って勝利の立役者を祝福する。


「ほら、むーちゃんもお祝いしよ!」


「いや、僕はい」


「いいからっ」


 無理やりに手を取って、咲奈は僕をフェンス際まで連れ去る。

 試合終了。両チーム向かい合って礼を尽くし、解散する。今年は甲子園も望めると、誰かが言っていた。そこまで強くなったのは、あの清水のおかげだ――流れてくる噂は、清水のスペックを褒め称えるものしかない。

 そりゃそうだ。

 今年のヒーローはもう彼に決まっている。決まりすぎている。

 ゆえに彼は、自らの選択で人生を決めることができる。

 僕でも、咲奈でも、介入することはできても、止めることはできない。


「あー……行っちゃった。トイレかな?」


 おーい、と笑顔で手を振って、チームに戻ってすぐ監督に頭を下げて校舎に走り出した清水を追う咲奈は、ふて腐れたように肩をすくめた。


「長時間の試合だったからね、大かもしれないね?」


「女がそんな大とか口にするんじゃないよ」


「じゃあ、なんて言えばいいの?」


「言わんでいい」


 近づく顔を押しのけ、僕は距離を取った。


「終わったなら帰るぞ」


「えー、清水くんに挨拶しようよ! トイレならすぐ帰ってくるだろうし」


「いや……帰るぞ」


 一瞬、止まった足を動かし、僕はグラウンドに背を向ける。

 南校舎を駆け上がる足音が微かに聞こえる。グラウンドでは選手たちの交流が行われ、応援団は口々に今日の試合の感想を語っている。

 そこに、僕の居場所はないし、作ろうとも思わない。

 右往左往する咲奈から、僕は踵を返す。

 少しだけ汗くさい風が鼻を掠め、なんだかそれだけで胸がざわっとした。


「置いていくけど、いいよな?」


「え、ええ?」


「付き添いはここまでだから、あとは好きなようにしなよ、咲奈」


 憧れに声をかけるもよし、応援団で語り合うのもよし、遠目に眺め続けるのもよし。

 ここには選択肢がある。咲奈には多くの自由がある。

 足枷になりそうな僕はさっさと距離を取るべきだ。

 恋の応援をするよりも、忠告をしてしまいそうなこの胸のざわめきが、非情なほど言葉を冷たくする。


「――ま、待ってよむーちゃん! 私も帰るからっ!」


 それでも多分、これが咲奈を縛りつけられる今の最適解と出した僕は、卑怯だ。

 ざわめきを抑えるために彼女を振り回す――休日一日潰されたお返しというには少し重いが、それでも仕方ない。


「ねえ、帰りにアイス買って帰ろうよ」


「今日連れ出したの咲奈だから奢りだからな」


「えー……今月のお小遣いピンチ……」


「そうやって甘えるの何度目だよ」


 後ろを振り返る。

 南校舎二階、開かれた窓の奥で、人影が二つ向かい合っている。

 結果は知らない。知ろうとも思わない。


「いやー、むーちゃん大好き! よっ、だいとーりょー!」


「そんな安い持ち上げで誰が乗るんだよ」


 隣で咲奈が笑っていてくれるだけで、それ以上何も要らないのだから。

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空白 ぱん @hazuki_pun

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