第4話

 その夜、寮での食事のあと、部屋に戻るなり、紅葉香は教典を机の底から引きずり出した。小さな蜘蛛が驚いて、ひきだしから逃げていった。かまわず、大部の本を床に置いて、ぱらぱらと開いた。クゼという文字は探さなくても、すぐに見つかった。

 クゼはこの世界を滅びから救った英雄として描かれていた。本来なら誰も残らないはずの人間が、次の時代を迎えられるようにしてくれたのだと、教典は書き記している。どこにも、この世界を滅ぼすきっかけになったのがクゼだとは書いてはいない。

 何のためにこんなものを確かめようとしたのか、紅葉香もよくわからなかった。けれど、ここに書いてあることのせいで、クゼが謝りに来なければならなかったような気がした。

 夢の中の自分を思い返そうとした。あの時の自分はどうして、すぐにクゼを赦すことができたのだろう。そんな畏れ多いことがよくできたものだ。自分を超える何かがそうさせていたとしか思えない。

 床に座っていたせいで、次第に体は冷えてきた。寮の建物は古いコンクリ製で、それは音楽室が声を響かせるように、ふるえを強くしているように思えた。ベッドの中に潜りこまなければ、凍えてしまいそうだ。

 ベッドに上がり、毛布を頭からくるむ。眠気が体の内側に育ってくるのを紅葉香は感じた。

 こんなに強い睡眠欲を感じたのは初めてだ。

 また、クゼが生きていた頃の風景が頭を流れはじめた。感覚がおかしくなっている。

 もう一度、眠ってしまえば、その時、クゼに会えるだろうか?

 これでは、眠りの中の不自由だ。眠らなければ手にできないもののために、あくせくとしているのだから。それでも、自分はそこに旅立たなければいけない。クゼについてもっと知りたいし、それができるのは、きっとこの世界で自分だけなのだ。

 しかし、その眠りは簡単に妨げられる。

 真鍮製の扉が押し開けられた。ああ、部屋に戻るなり、教典を開いていたから、鍵をかけることを忘れていたのだ。それにしても、扉をノックすることもなしに入ってくるだなんて、よほど性急な人間と見える。かといって、寮生から奪えるほどの金品なんてないのだけれど。

 その何者かはゆっくりと、茶碗を包む袱紗(ふくさ)でもとるように、毛布を押し上げた。

 千沙がそこに立っている。とても、性急な顔をして。

「ちょっと! 寝るには早すぎますわよ。入浴もまだですし、汚いですわ」

 千沙の高い声が響く。紅葉香は何も答えることができなかった。何をしているかと問われれば、むしろ何もしていなかったからだ。

「今日の紅葉香さんは、おかしいですわ。お散歩の時も憑かれたようになっていましたし。今もどうして死が迫ったような病人のような表情をしているんです? 疲れているのなら、医務室へ行きましょう」

「体調不良じゃないわ。わたくしは、眠りたかっただけよ」

 まだ、頭はまわらないから、頭に浮かんできた言葉をそのまま伝えることしかできない。千沙の奥にも三軒茶屋の街並みが見え、銀色のバスが通り過ぎている。

「そんな言葉で納得するものですか」

 千沙が手の甲を紅葉香の口に押しつけた。紅葉香は口の中に土ぼこりの味を感じた。夕方に散歩をしていたせいだろう。千沙の中にも、こんな野性の味のようなものが残っているのか。

 紅葉香は自分の種族の内に隠れているなつかしさのようなものを覚えた。それは眠りに向かう意識とは、きれいに逆向きのものだった。

 ひとたび、紅葉香はその口をどけて、体を後ろへ引いた。それを待ち構えていたように、千沙は紅葉香の首のあたりを押して、制した。

 いつもなら、華奢な千沙の体ぐらい、あっさりと取り除けただろうが、その時の紅葉香は頭が曇っていたせいもあって、ろくに力を加えることができなかった。押しつけられ、そのまま咳き込んだ。

 千沙は背中の体重を紅葉香の胸にかけて寝そべるようにすると、紅葉香の腕をとった。

「あなたがうつつを忘れませんように。夢の世界にとられませんように」

 ほとんど噛み千切るように、千沙が乱暴に肉を噛んだ。紅葉香は血があふれ出すのを感じた。腕だけでなく、全身が熱くなる。胸の中で焚き火でもされているようだ。自分はこんなに熱い血を持っていたんだ。

 噛みつく勢いの割には、千沙の血の吸い方は平板なもので、多くの血をとろうともしなかった。むしろ、紅葉香を確かめるように、少しずつ、その血を味わっているようだった。

 その間、紅葉香は滅んでいった人々のことを考えていた。

 血を吸わない人間は女も男も、寒さを乗り越えることができなかった。男は血を吸う人間も含めてみんな死んでしまった。

 残ったのはわずかな血を吸う女だけだった。

 どうして、自分たちだけが、取り残されてしまったのだろうか。教典にあるように、それほどに、自分たちはすぐれていたのだろうか。神に近かったのだろうか。

 違う。きっと、偶然血を吸う女だけが、人類の中で一番丈夫だっただけだ。

 紅葉香は懸命な千沙を見つめていた。自分の血が千沙の血の中に入っている。恐ろしさと崇高さと、二つの異なるものを紅葉香は同時に感じ取った。

 自分たちは一番獣に近かったから、今、ここにいられるんだ。

 奇妙な仮説だ。獣に近いということは、それだけ人間として不十分ということではないか。そんな自分たちだけがこうして人間の灯を守っているだなんて、皮肉を通り越して、冒涜的ですらある。

 けれど、こんな形でしか自分たちは生きられないのだ。そして、栄養としてはもはや不要になったはずの血をほしいと思う。吸血鬼と呼ばれていた時代があったのも当然だ。血を吸わない人間が大半だった時代、自分たちは人間より邪悪な化け物に近かっただろう。

 いつのまにか、千沙の吸血は終わっていた。少しこぼれた血が毛布に落ちて、にじんでいた。こんなところで吸うからだと文句を言おうと思ったが、満足げに黒いハンカチで口を拭く千沙を見ていると、それもバカらしくなった。獣は自分のためにしか生きないのだ。

「紅葉香さん、あなたもわたしをお吸いになって」

「わたくしは、今日はいいわ」

 意地を張ったわけではない。本当にいろいろと考え事をしていて、頭を落ち着かせるために、むしろ血を減らしたいぐらいだったのだ。

 千沙は黙ったまま、手首を紅葉香の口に近づけた。

 また、土ぼこりのにおいを紅葉香はかいだ。いつもなら不愉快なにおいが、紅葉香の体の奥のずっと深いところを刺激した。

 自分はこんなに血がほしいのかと思った。過去と意識が混濁することもなくなっていた。

 そっと犬歯を千沙の細い腕に当てて、穴を空ける。じわと鉄の味が口に広がる。ようやく、眠気も飛んでくれる。よかった、という声が聞こえる。遠くで? いや、近くで。

 紅葉香さんが夢のほうにとられていくような気がしていたのですが、今のあなたはごく普通の人間ですわね。千沙の声と香りが混ざり合った。強い共感覚。さらに血がほしいという欲望が精確に起こる。ごくりと吸う。もう、体は冷えてはいない。

 紅葉香は口の中の血を一度おなかに送りこむと、ありがとうと言って、抱きついた。千沙の体が脈打つ音を聞いた。とてもいとおしい音だ。

 そうだ、ここに千沙がいる。自分はここに帰ってこないといけない。血を求めないといけない。目を開いたら、そこに千沙がいてくれないと。

 あまり夢の世界を求めすぎてはいけない。それはちっぽけな自分一人では御せるものではない。

「千沙、今日、とても変わった夢を見たの。笑わないで、すべて聞いて」

「もちろんですわ。わたしが紅葉香さんのことで知らないことなんてあってはダメなんですから」

 傲慢な千沙の言葉にくすくす笑って、それから思った。

 自分もクゼにとっての、そんな存在になることができていたらいいなと。

 すべてを話し終え、紅葉香はクゼに出会うために眠らないといけないのだと答えた。ほんのりとあった、戻ってこれないかもしれないような眠りへの恐れはなかった。

 聞き終えた千沙は、あらためて紅葉香を見つめる。紅葉香の全身を目におさめようとするように。

「わかりましたわ。その代わり、クゼ様にお会いするつもりの時は、わたしと手をつないで眠ってください」

 条件の理由を、千沙はこんなふうに説く。

「わたしがつながっていれば、ちゃんとこちらに戻ってこられるはずですから」

 紅葉香は目を閉じながら、思った。

 クゼに出会えれば、何色の血をしているか聞いてみよう。



 二十年後、紅葉香は教義の改革者として活躍することになる。それは氷河期以降、最大の宗教的事件だった。

 そんな紅葉香を経済的にも、精神的にも支えたのは、千沙だった。彼女は時折、憑かれたようにぼうっとする紅葉香を励まし、血を吸わせてやった。ややもすれば、魂が抜けたようになってしまう紅葉香を現実に連れ戻し、直感と体験を中心にした著作に、客観的な言葉を与える手伝いをしたのは、間違いなく彼女だった。彼女は自分が理解できる言葉を紅葉香が選ぶまで、何度も書き直しをさせた。事実、博物館に残る初稿本は、わざと理解を閉ざすような言葉が多く、ほとんど文学作品のようにしか見えない。

 では、紅葉香の教えはどのようなものか。普及本ですら、宗教学の用語で彩られているため、初学者にはあまりに難解であるものの、強引に要約すれば、人は神を赦す権利と義務を持つというものだった。

 人は神によって祝福を受けるが、その代わりに神を赦す。なぜなら、自分たちのような不完全な存在を残したこと自体が、神の一つの過ちであり、その過ちを解消するものが必要だからだ。

 もし、最初から神が完璧であれば、多くの人間の滅びなど起こりうるはずもない。そして、生き延びている自分たちが決して完璧なものでもなんでもなく、現実に苦しんでいることも、また明らかだ。試行錯誤の末に、血を吸う女だけが残り、その自分たちもこれからもつらい日々を生きていかねばならない。

 では、生き延びてしまったものの役目は何かというと、過ちを犯した神を赦すことである。それではじめて、神と人との契約関係が成り立つのだ。神を崇めるだけでは、神の懊悩(おうのう)を救うことはできないし、人もまた神に近づく安らぎを得ることができない。

 傲慢であるのか、はたまた卑屈がすぎるのか、この奇妙な教説は発表当初、顧みられることはなかった。だが、衰退を続ける人類という現実を目の当たりにしていた者たちは、やがてその考えを受け入れだした。いわば、それは滅びゆく人類の存在意義を規定するものだったからである。人々は何のために自分たちが生きているのかを、少しずつ沈んでいく船のような世界にいて、強く知りたいと願っていた。

 最後の一人が消えてなくなるまで、神を慰めよう。

 ただし、幸いなことに、人類は紅葉香が、あるいはクゼが考えていたようにはならなかった。

 人類は滅びを回避し、次の局面を迎えた。細々とながら残った遺伝子研究の成果で、生まれてくる子供はより丈夫になったし、数も増やせるようになった。人口の減少はあるところで止まった。

 さらに数百年先、遺伝子研究のおかげで、二つ目の性を復活させられる見通しが立った。ただし、男を作るべきかどうかという議論は、三十年にも渡って続けられて、いまだに答えは出ていない。人類はすでに単一の性だけで長くを生きすぎた。

 ただ、どんな答えが出ようと、神はかまわないというだろう。

 間違った道を選べることこそが、人間の存在意義にほかならないのだから。


◆終わり◆

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まどろみ宗教改革 森田季節 @moritakisetsu

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