第3話

 目を開くと、千沙が頬に人差し指を当てていた。どうして、人は頬がへこんでいることに、こうも気づきづらいのだろうかと紅葉香は水彩絵具のようにぼやけた頭で考えた。胸や膝小僧がこんなにもへこんだら、大惨事であろうに。

「もう。わたしの前をふさぐだなんて、紅葉香さんの意地悪。風がちっとも当たらないでしょう」

「眠る前ならともかく、眠っているうちは何もわからないんだからいいんじゃない? わたくしは悪くないわ」

 自分に非がないことを強く主張したのは、頬をつつかれていた分だけ、千沙に負い目を与えるためだった。

「いいえ。これも、眠りという自由の侵害に当たりますわ」

 そんな言葉が千沙から飛び出して、紅葉香は笑ってしまった。

 紅葉香は起き上がる。眠気はその時に転げ落ちた。

「わたくしの負けね。千沙、あなたは形而上学的思考に長けているわ」

 まだ千沙はばかにされていると思ったのか、自分がへこませた分だけ頬をふくらませていたが、紅葉香のほうは真面目に言ったつもりだった。自分のほうは何につけても実際的すぎるところがある。三割はコンクリの街に生まれたせいかもしれないが、赤音さんはそんなことはなかったし、やはり気質の、固有の魂のせいなのだ。

 さあ、講義室へ行こう。この時間なら、始業の一分前にすべりこめる。


 その日の講義がすべて終わると、生徒たちは一斉に別棟の礼拝堂に向かう。

 この学院の礼拝堂は不思議な作りになっていて、一階がない。正面を向くと、上り階段と下り階段を両方目にすることになる。礼拝堂へ上がるのは上りで、下りは信徒がお堂の地下で祈りを捧げる空間になっていた。とはいえ、学生が行事に使う時の場所というのが実際のところで、半地下の湿った空気も手伝ってか、誰もが秘め事めいた生臭いにおいを感じていた。

 一度に生徒すべてが礼拝堂に入りきれないから、下級生の待機者たちは半地下のところで時間を過ごす。学院の生徒たちは、「地下」とだけ呼んでいた。紅葉香も千沙とともに、そこで身を潜めていた。

 壁の周りには、神の伝説を描いたレリーフが貼りつけてあり、さらに奥まったところでは、神を助けたとされる聖人の像が安置されていた。学院で習うような儀軌(ぎき)には決して書かれていないものの、神と比べると一段人間に近い聖人は、淫靡(いんび)ささえ残す秘法を修する時の本尊として使われるためか、気色悪い生々しさを示している。とくにその聖人は男の姿をしていたので余計に異様に見えた。

「わたし、この場所は苦手ですわ。空気が薄くて、窒息しそうになるんですの。それも急に苦しくなるのとは違って、知らないうちに心を奪われているような、正しいくびり殺し方のようなそんな塩梅(あんばい)で」

「なんだか、まるで気持ちがいいことのような言い方ね」

 二人はこそこそと話をする。私語厳禁の言いつけも生徒は最初の二か月は守りこそすれ、そこから先は何の力ももたなくなる。人の世に干渉できない、ここの神と同じだとでも言うようだった。

「気持ちのいいことほど、恐ろしいものはないでしょう? とくに凍えて死ぬ時は、えもいわれぬものだと聞いたことがありましてよ」

 紅葉香はしぜんと寒さで死んでいった祖先のことを想った。彼らの文明をもってしても、火山噴火から起こった氷河期を生きることはできなかったのだろうか? 冷やすより温めるほうが簡単だというのに。

「その話が本当なら、生き延びたわたくしたちは実にストイックな動物だったということになるわね」

 知らないうちに生き延びたという言葉に皮肉が混じっていることに、紅葉香は苦いものを感じた。自分たちが生き延びただけのものにすぎなくて、いずれ人間は退行していくだろうことは知っているのだが、千沙はあまりそのことを認めたがりはしなかったからだ。

 今の時代、人の体から生を受けた人間は一人もいない。この地下にひけをとらない奇妙な生体発生室で命を与えられ、親となる手続きを記入漏れなく行った人間のもとに送られる。

 紅葉香は生まれることはできたものの、三歳の頃まではずっと病弱で、親に引き取られる対象にも入れてもらえなかった。

 そう不思議なことではない。人工的に生み出される命は多くが病弱で、育つ見込みがないとわかればこうこうと照らされた生育ケースは、真っ暗な棺に変わる。紅葉香はどうにか闇に落ちずにすんだ側だった。

「そうですわ。わたしたちはクゼ様を熱心に慕っていたから、こうして生きながらえているのですわ」

 仏頂面で、咎めるように千沙は言う。千沙は紅葉香と比べると、ずいぶんと敬虔なクゼの信者だった。

 けれど、紅葉香にその言葉は特別な作用をもたらした。

「あっ」

 紅葉香は夢の内容をたちどころに思い出した。記憶の底にゆっくりと埋もれて消えていくはずだったその夢はたちまちサルベージされ、記憶の最上位の席に置かれた。

「紅葉香さん、どうかいたしまして?」

「あなた、午睡の時に、夢を見ていたりした?」

「さあ。夢って、目覚めて数分のうちに、日ののぼったあとの霧みたいに、消えてしまいますから」

 色よい返事ができず、千沙も少しばかり悄然としたように眉根を下げた。

「何か、恐ろしい夢を見ましたの?」

「恐ろしくはないけど、変な夢ではあるわね」

 教師が礼拝堂に入るようにと、声を出していた。前の列に従いながら、紅葉香も千沙も礼拝堂へ直接入ることのできる、螺旋の階段に吸いこまれていった。ぐるぐるまわっているうちに、意識が夢の中に戻るような気がした。

 そのせいか、力が抜けていく。自分というものがこそげ落ちていくようなのだ。

 階段を一歩のぼるたびに足がふるえて、かかっ、かかっと奇妙なスキップをする羽目になる。これでは古代宗教の儀式だ。あまりに危なっかしいと思ったのか、千沙が「酔っ払いみたい」と言いながら、右手を貸してくれた。

「ごめんなさい。なんだか、力が入らなくて」

「熱中症になるような季節でもありませんのに。紅葉香さん、あなた、そんなに体が悪かったかしら?」

 あの夢を思い出してしまったせいだろうと了解しつつ、「なんでもないから」と答えた。あの夢を見たあとだからこそ、今日の礼拝は滞りなく行いたかった。やがて、螺旋階段は地上二階に当たる礼拝堂に達した。

 礼拝堂の中は香木の煙のにおいが立ちこめて、霞んでいた。周囲には供物として置かれている赤インクを垂らした水の入った器が監視するように並んでいる。内部の人間の息づかいのせいか、器の水が揺れているように見えた。

 祭壇の中央には、笑みのない、張り詰めた厳しさをたたえた神の像が置かれ、生徒たちを見下ろしている。白い石で彫られたその像は、触れられることを拒否するように、とても遠くにあり、礼拝者たちに神との距離を実感させるようにできていた。

「祈りを、はじめなさい」と同伴の教師が言った。

 そっと、生徒たちは目を閉じ、手を組んで、神に祈りを捧げる。

 人間を滅ぼすかどうかはすべて神のご意志にかかっている――ことになっている。

 この教えがはじまったのは氷河期の直後であったという。世界各地にクゼを継ぐという者たちが現れ、寒さをとどめようとした。その結果、人類は絶滅を免れ、地球で生き続けることを許された。だから、人間たちはそのクゼという神たちの恩寵(おんちょう)に感謝の意を捧げねばならない。その気持ちが薄れた時、再び氷河期は強まり、生き残りすらも殺し尽くす。といっても、災厄の様子さえ古い伝説となってしまった今、人間にとってクゼの信仰は一種の習慣の一つに堕していたし、途中から付け加えられた様々な神格のせいで、やけに雑多な印象を与えていた。

 誰もが目を閉じると、香木の香りを強く感じた。それはクゼが現れた時、周囲を満たした香りなのであるという。

 いや、違う。こんなものではなかった。歯医者のにおいがしていた。

「あのね、夢でクゼ様と会ったの」

 目を閉じたまま、紅葉香は言った。さすがに静まったところで目立たぬように、囁くような声にした。

「あくまでも、夢のことでしょう?」

「そうだけど、夢でクゼと名のっておられたのよ。クゼ様はこの世界が滅びかけたのも自分のせいだとおっしゃられてたわ。たしかにそういうこともあるかもしれない。クゼ様が氷河期から人類の一部を救ったというけれど、その氷河期自体をクゼ様が起こしてしまったとしたら」

 しばらく千沙の声はかえってこなかったが、やがて、

「少し、不敬がすぎますわよ」

「本当でなきゃ、こんなこと言わないわ」

 もう返事はなかった。やがて、「祈りを、やめなさい」の教師の声が聞こえた。

 クゼの像はこれまでのとおりに厳しかった。笑っていないところだけは、夢のクゼに近いように思われた。

 紅葉香は自分の目がうるんでいるのを感じた。何かが悲しいのだ。けれど、何が悲しいのかは、自分でも見当がつかなかった。おのれの内に泣きたいような感情など入ってはいないはず。

 そうか、クゼという神様の代わりに泣いているのだ。

 得心がいった。

 石の像では泣けないから、誰かが泣いてやらないといけない。

 礼拝堂を出る時、教師が自分に向けて手を合わせ、頭を下げた。

「紅葉香さん、あなたほど、神に近い生徒は学院でもいないかもしれませんね」

「褒めてもらうためにしたことではないですから」

 思ったことを言っただけなのに、それがまた優等生のような受け答えで紅葉香はばつの悪い思いをした。まだ頬に一筋の涙が落ちてはいたが、それをぬぐう気にはなれなかった。涙がクゼのものだから、流れるにまかせようと思った。

 足腰は元に戻っていたけれど、目は何かに魅入られたように、ぼうっとしていた。

 寮にまで戻る道すがら、千沙は珍しく、自分から手を握ってきた。

「紅葉香さん、少しふわふわしていますわよ。紙風船のよう」

「そうね、ありがとう」

 礼を示すために、紅葉香は強く千沙の手を握り返した。

 校舎の脇では、管理職員が落ちている銀杏の実を熊手でかき集めていた。料理にも使えるけれど、このにおいだけはたまらない。とくに滅ばなかった人間たちは嗅覚にすぐれているらしい。かつての人類なら今ほど苦しまずにすんだという。

「日が暮れるのが早くなりましたわ」

 灰色になってしまった空を、千沙は見上げていた。今の頃から、日暮れのあとの寒さをはっきりと感じる日が増えてくる。彼女は制服の上から毛編みのセーターも着ていなかったので、余計にそうだろう。紅葉香も千沙の手から熱が奪われているように感じた。この調子では、午睡部屋の戸を開け放しにするのも、そう長くは続けられまい。

「冬なんてこなければいいのに」

 そう言って、クゼが冬のような女だったと、ふと思った。どことなく、殻があるような、そんなところがあった。けれど、心がないのかというと、それも違う。クゼは自分の言葉で未来の自分たちに何かを伝えようとしていた。

 ただの想像でしかないが、クゼという神は喜びなどより先に悲しみを手に入れたのではないか。そのほうがずっと強く記憶に残るからだ。紅葉香もよくないことのほうをたくさん覚えている。コンクリの街でも、母親役の赤音さんはやさしくしてくれたはずなのに。

「少し、散歩いたしませんこと?」

 同意を得る前から、千沙は紅葉香の手を引いた。

 寮の前を横切っている道は、大昔に暗渠(あんきょ)となった遊歩道で、両側にはわずかばかりの細い木も生えていた。古い噴水がところどころに左手に見えるが、どこも水は入っていなかった。

 少しばかり道がへこんだようになっているところは、昔の流路の名残だろうか、木材を横に並べただけの質素なベンチが置いてあり、千年も前からずっと生きてきたような老人が杖をついて、腰を下ろしている。

 学院の周囲に住むのはもはや年寄りばかりで、それは全寮制の学院が学生の若さを隔離するために作られた施設であるかのようだった。

 道には普通の歩道とは違うタイル模様の石が入れてあるのだが、そのせいで石と石の隙間には名前を与えられているかすら疑わしいような葉先の尖った草が生え、薄茶色に変色した落ち葉が入りこむのを拒んでいる。

 落ちていく太陽はたしかにまぶしいのだが、背を向けて歩いているので、よくはわからない。紅葉香は、歩くに連れて、暗渠の外側の家並みが薄汚れていくのを感じとっていた。

 寮があったところからゆるやかな坂を三分歩けば昔、駅というものがあった場所に出る。だから、寮のあたりは本来、一番の繁華街で交通の要衝でもあったはずである。それから離れていくのだから、人の数もさらに減っていくのだろう。寮の前身はもともと街道沿いに建てられていた旧時代の礼拝堂だったらしく、青目と呼ばれる神像を祀っていたということを、どこかで読んだことがある。名前の通り、目の青い神格だったのだろう。

「この道は、ふるさとに一番近いところですの。心を落ち着けたい時は、よく歩いているんですのよ」

 千沙の声はどこか感極まっているようで、紅葉香は鹿の鳴き声はこんなものだったと、昔、赤音さんと訪れた山の中の旧礼拝堂の記憶を思い出した。帰りのバスは日が暮れきる前に出てしまうので、取り残されたら大変だと気が気でなかったはずだった。

「けれど、心が落ち着くというのは、とても寂しいことのような気もしますの。だって、それは動かないこと、死んでしまうことに近づいているみたいなんですもの」

 投げかけられる千沙の声を聞いても、なかなかその水路の街が想像できない。紅葉香は日光浴に連れ出される病人のように、ふらふらとしていた。いつもは窮屈さを感じるブレザー式の制服も、ワインレッドのネクタイも邪魔だとは思えなかった。自分が縮んでしまったのだろうか。

 さらに行くと、道は直角に交わる道路で一度断ち切られている。その横に「八幡橋」と書かれた旧時代からの橋の跡だけが残っている。それに並ぶように、クゼ礼拝堂の案内を示す道標が並んでいる。

 その道標の文字を読み取ると、紅葉香のおなかがうずいた。

 ふっと、過去のまだ世界が栄えていた頃の風景が頭の中を流れる。

 ――三軒茶屋、池尻大橋、松濤、神泉、渋谷、金王神社、恵比寿。

 なんだろう? 見たことのないはずの景色がどうして見えるのだろう?

 何かをしなければいけないのだが、それが何かはわからない。きっと、誰にもわからない。

「紅葉香さん」

 千沙は紅葉香の手をぐいと引いていた。

 そこで振り返るぞということなのだろう。

 来た道のほうを見ると、だいだい色の太陽がぼうっと二人を照らした。紅葉香にはそれが血のかたまりのように見えた。血の香りがそこに広がったよう気さえした。

「世界一の宝石ですわ」

「あまり見つめると目に悪いわよ」

「血がたぎりませんこと?」

 胸に手を当ててみた。血は静かに流れている。血がたぎるどころか、熱はほとんどこもっていない。どちらかといえば、熱がずっと自分の外側に出ているようだ。

 おなかのうずきはなくなっていた。得体の知れない焦りも消えていた。

「ねえ、千沙、一つ、聞いていいかしら?」

「一つだけでしたらね」

「神様の血の色は何色なのかしら」

「さあ」

 突拍子もない質問に、千沙はぽかんとしていたが、

「瑠璃色じゃありませんこと?」と言った。

「どうして、そう思うの?」

「わたしたち人間と同じ色ということはないはずですわ」

 紅葉香はそれをクゼに直接聞きたいと思った。

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