第2話
気がつくと、紅葉香は夢の中にいた。不思議とそこが夢であることはすぐに知れたし、千沙が決して同じ場所にいないことも同様に、最初からわかっていた。
その景色は写真か何かで見た大昔の都会の様子だった。といっても、紅葉香には都会という以外にそれを表す言葉がなかった。観察するように目を光らせていると、「渋谷」という文字が見えた。
「しぶたに? どこかしら」
つぶやきながら歩くと、空気が極端なほどに粘っこいことに気づいた。自分以外の人間はいなかった。
目的地などあるわけもないので、紅葉香は渋谷を歩いていった。運転手もいないのに、世田谷と書いたバスが走り抜けていった。
「今度は、よただに? 谷ばかりね」
猥雑な坂を上り詰めると、やがて、松濤という文字が見えた。
「読めないわ」とつぶやきながら歩いていくと、水車のある公園に出た。
紅葉香は水のある公園を見ると、心が自然と浮つくのを感じた。昔からそうだった。コンクリの街で生まれたくせに、そこにない景色のほうに惹かれてしまうのだ。
その公園には奇妙な、銀色の服を着た女が立っていた。手すりにもたれながら、灰緑色の池を眺めていた。
「君の夢の周波と私が送っていた信号が一致したらしいな」
女が振り向く。自分より年上か年下か、よくわからなかった。
人形のように、怖いほどに細い糸のような髪をしていて、それが地に這いそうなほどに伸びていた。千沙に慣れ親しんでいたせいで、千沙っぽくない女というだけで紅葉香は心が強張るのを感じた。左腕を右の人差し指で撫でる癖が出ていた。
「誰ですか?」
尋ねただけで敵意がこもってしまったことに、紅葉香は困惑した。
「クゼと言う。あなたが目覚めた時に覚えているかはわからないが。人間は夢を記憶する能力にすぐれていない。未来人であるあなたでもそれは変わらないだろう」
その女はごくごくあっさりと名前を口にした。
「あなたたち未来人に対し、私は謝罪の義務がある。なので信号を送っていた」
「謝罪?」
「人類が今――君にとっては過去だろうか――危機に瀕しているのは、私が宇宙意思であるmiloc(ミロク)の決定に背いたせいだ。でなければ人類はこんな危機になど遭わずにいるはずだった。五十六億年近く、私は滅亡を早めてしまった」
「椅子に座りませんか」
突っ立ったまま話を聞かされるのが紅葉香は嫌だった。しかも、この女に近づくと、余計に空気の粘りけを強く感じる。先にベンチの端に座った。砂がざらりとしていた。
クゼを名のる女は、じっと立っていたが、やむなしといった調子でベンチに腰を下ろした。紅葉香は歯医者の中のようなにおいを感じた。この女の血はきっとまずいだろうと思った。
そのあと、女は長々と説明を加えていった。いつのまにか、紅葉香は自分が水車ばかり見ていることに気づいた。時折、責任だとか、説明といった言葉だけが耳をかすめたが、紅葉香はずっと落ち着いて、聞いていた。何者かの一存で人類の行く末が変わったと言われても、あまりにもあいまいで輪郭もつかむことができないのだった。
憎しみという感情は今の人間には薄い。紅葉香にも薄い。生存に不要だから捨ててしまったとも、絶望が深すぎて忘れてしまったとも言われていた。紅葉香もその気持ちが具体的にどういうものかよくわかっていない。
「では、これで話を終える」
日の光がちょうどよくて、うつらうつらしそうになっていたところだった。夢の中で眠ると、何を見るのだろう。
「あの、クゼ様」
「様と呼称するのは敬意として過大だろう」とクゼは言った。
「クゼさん、あなたの内容を要約すると、悪いことをしたからごめんってことでいいんですよね?」
赤音(あかね)さんのような言葉づかいになっている。
「そういうことになる。私は君たちの生きる未来に大きな影響を与えた。宇宙意思miloc(ミロク)の知識供与を拒否しなければ、氷河期を乗り越えることは可能だったはずだからだ」
「でも、それが正しいと思ってやったんですよね?」
女はしばらく黙っていた。しようがないから、待った。紅葉香は待つことは苦にはならない。これが千沙なら急かしただろうが。
じっと、横に座る女の様子を、紅葉香は見つめていた。何も変化のようなものは生まれなかったが、つまらないということはなかった。覚えたくもない古典の名前を詰め込むのよりはよほどいい。
「わたくし、水のある公園って好きなんです。そのおかげで、公園に動きが生まれるじゃないですか」
どうでもいいことを、わざと、言った。
「公園は場所なので移動はしない。が、水が人間に安らぎを与えることは理解している」
「そうですね、動いたりはしないですね」
水面に陽光が反射して、輝いている。光の当たるところは白に、ほかのところは深い黒に見える。時間は止まっているようだが、水車はのろのろとまわり続けている。この水面の、白だか黒だかわからない色をどう名づけようか。ああ、夢色と呼ぼう。
水に流すという言葉があったはずだ。水の中に入って溶けてしまえば、もう罪もすくえなくなる。この女の罪も水に流したらいい。
「未来人は、ずいぶんと詩的な表現を多用するな。私たちは感情というものを軽視していた面がある」
「どうして、この場所にいらっしゃったんですか?」
この女が土地を選んだことは、なんとなく、想像がついた。渋谷だとか松濤といったところがどこだかわからないが、人がいない割に、どこか陽性で、終始にぎやかな印象がある。
「私が愛した人がこの場所を好いていた。私が初めてその人と出会ったのも、ここだった。当時、渋谷界隈は大変にぎわっていた」
そういえば、坂を上る時、両側に「金王神社」などという文字ののぼりが見えただろうか。神社といえば、人類が大きく減ってしまう前の宗教施設だったはずだ。華やかな、ほかの種類の人間も、男もいた時代の名残り。そういえば、ここでも残り香がただよってくるよう。
「ねえ、クゼさん、あなたが愛していると言ったのは男なんですか?」
好奇心が入道雲のように湧き出してくるのを紅葉香は感じた。クゼが活動していた時代には、まだ男という性別が存在していたはずだ。
「やっぱり、男って病弱そうな顔をしてたの? 寿命も女より短かったって聞いてるけど」
「それは、固定観念だ。見た目が違うぐらいで、女と大差はない。たしかに平均寿命は女のほうが強かったが、個体差で見るとたいしたことはない。女の寿命もその頃は大半が百年もなかった」
女はだんだんと紅葉香の術中にはまったように、言葉を紡いでいく。抜き取られているというのが正しいだろうか。紅葉香は相手から自分のほしい情報を手に入れるのが得意だった。そうやって、相手の知識を吸収すると、欲が少し満たされる。
もっと、もっと食べたい。その純粋な欲望は腹の底から湧き上がってきて、紅葉香をコンクリの街から今の女学院まで送り出す力になった。
いつのまにやら、答えづらい質問をはぐらかしてやろうという当初の意図もどこかに行ってしまった。
夢だから時間の感覚もいいかげんだし、いくつもの謎をぶつけてやった。クゼは誠実というよりも、不真面目であることをまだ知らないらしく、誤りの最も少ない言葉で、とつとつと答える。紅葉香はこのままなら世界の謎がすべて解けてしまうのではないかと思った。しかし、どうせ夢が覚めれば記憶にはないのだろうなと諦めている自分もいるのだった。
座っている紅葉香はいつのまにかクゼのそばに寄っていた。クゼの香りはやはり薬品めいてはいるが、それは銀の袋に入った鎮痛剤のように人の心をやわらげるようなものがある。そっと、肩をあずけると、クゼの体は信じられないほどに、やわらかく、弱いのだった。今の人間なんかより、はるかに小さいし、壊れやすそうだ。
そして、クゼは唐突に「もう時間だ」と告げた。
「ありがとう。気が楽になった」
お礼を言われる筋合いなどないと紅葉香は言おうとしたが、そこは気配りのできる人間なので、
「どういたしまして」
するりと言い換えた。
クぜはすぐには何かを答えようとはしなかった。ただ、紅葉香から目を離そうともしなかった。静かに、紅葉香は言葉を待った。誰に教わらなくても、それが自分の役目であることは知っていた。
やがて、クゼは決然とこう答える。
「miloc(ミロク)の意志には反していたが、私はこうあるべきだと考えた。後悔はしていない。あくまでも人類は人類の意志で未来を紡ぐべきだ」
「だったら、謝るのはおかしいでしょう」
たとえ、世界が滅ぼうと、自分の気持ちが踏みにじられるままにはしておけない。自分の命で世界が守れるとしても、そんな時は世界のほうが消えてしまえばいい。でも、わざわざ口に出したりはしない。きっと、誰だってそうなのだから。
「クゼさん、あなたは言い訳をしに来たんじゃない。過去の人間の気持ちを未来に伝えようとしたんです。その気持ちを受け継いでほしかったんです」
「ありがとう。もし、また君の夢と同調できればうれしく思う。その可能性は極めて低いが」
もう一度、礼を言われる。今度は頭を丁重に下げられて。
そこで夢は唐突に幕になり、紅葉香は、午睡部屋に引き戻される。
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