まどろみ宗教改革
森田季節
第1話
午睡(ごすい)部屋の前の戸は、いつも開け放たれていて、心地のよい風を送ってくれるので、紅葉香(もみじか)もよく、そこを利用していた。
ただ、紅葉香がここを使ういちばんの理由は、前の西洋庭園を流れる人工のせせらぎの音を拾えるからだった。その日も彼女はほどよい日差しを受けながら、昼休みの残りをまどろんで過ごそうと思った。
ちょうど意識が離れていきそうだという、その寸前に紅葉香はほかの誰かの気配を感じた。また、今日も眠るのに失敗した。
千沙(ちさ)が左側の耳を枕につけて、横を向いて寝ているのを紅葉香はすぐに見つけた。両側に流した、左右に伸ばした二房の長い赤髪がそっと、千沙に寄り添っている。
ふいに、紅葉香は千沙のふるさとが水路の多い街だったということを思い出した。家並みの前を流れる水路では、水草がふゆふゆとたゆたっている。その流れに逆らって、黄金色の鯉がゆっくりと尾を振る。彼らは音を立てない。耳をそばだてても、水のざゆざゆという音しかわからない。千沙が自慢げに言っていた。
この西洋庭園のせせらぎは、そのざゆざゆに似ているらしい。だから、千沙もこの午睡部屋の常連なのだ。
学院に来て、紅葉香が最初に千沙と長い話をした時も、この午睡部屋だった。縁側に並んで腰かけていた。
「わたし、いつまでも、ここで眠っていたいんですわ。だって、その時だけは、わたし、自由なんですもの。眠りの中の自由と言えばいいでしょうか」
千沙はとってつけたようなお嬢様言葉をその頃から使っていたが、紅葉香も含めて数日で、みんなそれに慣れて、なんとも思わなくなった。
「千沙、わたくしたち女学生ほど、自由な身分のものなんてないのよ」
そうあきれたように言いつつ、眠りの中の自由という言葉に、紅葉香は惹かれるものを感じた。
眠りのほかの、どこに救いが求められるだろう。
「では、自由な身分同士、仲良くいたしましょう」
千沙は自然体で笑って、足をぶらぶらとわざとらしく振った。紅葉香ほど濃くない赤い髪がわずかに揺れた。
あの時、紅葉香は自分の髪が赤すぎることに、変なコンプレックスを感じて、何も答えなかったが、結局、午睡部屋で何度も千沙と顔を合わすようになった。
千沙。
紅葉香さん。
不平等な呼び方にも、千沙は文句ひとつ言わず、それもなし崩しで定着してしまった。
紅葉香は、しばらく千沙のことを見つめていたが、千沙よりも戸に近いところに枕を置いて、あらためて横になった。丸めていた二つの髪はほどいて、千沙のように体に添わせた。
陽だまりが紅葉香をやさしく包んだので、目を閉じると、視界が赤いものに覆われていた。夜に目を閉じた時の闇の黒とは違う、きれいで荒々しい紅の色。
やがて、せせらぎの音は思っていたよりも、ずっと力強く、獣の鳴き声のように聞こえはじめた。そのせいで紅葉香は三十分の午睡の時間のうちに、眠りにつくことは結局できそうになくなった。彼女は体を起こした。
もしかすると、自分の住んでいたコンクリの街が悪いのかもしれない。自分は自然というものに、慣れていないのだ。名前にあるような紅葉など、鼠色のうちっぱなしの建物ばかりの街では見かけることなどなかった。故郷のバスで四十五分かかる山中の古い礼拝堂を訪ねたとしても、紅葉の香りだなんてものが本当にあったかどうか。どうして、赤音(あかね)さんは紅葉香だなんて名前をつけたのだろう。
負けを認めたように横を向けば、そこに千沙の死んだようにやすらかな寝顔だけがあって、その寝顔ばかりが目に焼きついていた。
自分が不定形な不安で苦しんでいる最中に、この午睡部屋の常連は幸せを味わい尽くしている。陽光も、赤みがかった羅紗のような髪も、すべてが千沙を守り、いつくしんでいる。千沙の心も体も、すべてが人工の川のように流れている。
「何か、ご用ですの?」
ふいに千沙が目を開いた。紅葉香は内心、どきりとした。
「いいえ、よく眠っているなと思っただけ」
「午睡部屋で眠るのは当然でしょう? 紅葉香さんこそ、眠らないのならなぜここに来るんですの? いつもヌシのように居座ってらっしゃいますけど」
ヌシと呼ばれたことに、紅葉香は不思議とうれしさを覚えた。どう考えても褒め言葉ではないはずなのに。
「わたくしが午睡部屋のヌシなら、千沙は午睡部屋の王ね」
ちょうど、むくげが最後の白い花を咲かせている頃だった。むくげが終わると、だんだんと夜が長くなり、いとわしい冬の足音が聞こえてくる。夏に力を見せつけていたほかの花も、種をこぼして、いなくなっていく。
だから、今日も千沙の血の色と同じ太陽が恋しくて、紅葉香は午睡部屋を尋ねた。日の熱はまださほど弱くはないが、夕暮れになった途端に寒さが人さらいのようにやってくる時候だった。
次の授業の課題が二問ほど残っているのだけれど、それをうっちゃってここに来ることはそれはそれで悪の蜜を感じさせてくれる。優等生という非人間的な褒め言葉で学園に入れられてしまった紅葉香にとって、これは彼女なりの抵抗でもあった。それに、ちょっとばかり古典文学の知識が増えたところで、誰を救えるのだろう。
「また、王様がいらっしゃるわね」
紅葉香は千沙の前でしゃがむと、その顔をのぞこうとした。千沙は今日も楽しそうだった。眠ってばかりの老猫のよう。これが猫ならそうっとひげを引っ張ってやるのだが。
「王様、わたくしもご一緒させてくださいな」
紅葉香は三日前に実家の赤音さんから送らせたそば殻の枕を置いて、丸めていた髪をほどき、右耳をのせた。ざああとそば殻がさざ波のように音を立てる。
川じゃなくて、海だ。そば殻は海の音を感じさせる。そばが海辺に生えるだなんて聞いたこともないのに。このなつかしさはどこから来るのだろう。コンクリの街は海になど面していなかった。隣町との境目はアスファルトの色がかすかに異なる、たったそれだけの違いで隔たれていた。
そうっと、千沙の鼻の頭に手を伸ばして、触れてみる。どうして、自分はこんなに悪いことが好きなのだろうと紅葉香は思った。これもコンクリの街で生まれ育ったせいだろうか。
千沙は起きなかった。千沙が起きない程度の悪いことが自分は好きなんだな。
目を閉じると、千沙と同じ夢を見られるような気がした。
午睡部屋では寝つけないことが多いけれど、今日は例外の気がする。
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