彼女の鞄
月波結
彼女の鞄
暑い日だった。
五月だというのに風もなく、太陽は機嫌よく光を注ぎ、アスファルトはそれを容赦なく照り返した。
彼女の鞄から茶色い粉が落ちた。それは焦げ茶色をしていたなにかの細かい粉のようだった。
気づかれないようによく見ると、持ち手やジッパーの辺りに使われている合皮が剥がれ始めていた。それが
合皮の剥がれたところには惨めなグレーの芯材が見えていた。
鞄は、クロワッサン型をしたジュートかなにかを編んだ涼し気な夏物だった。「暑いわね」と神経質そうに言いながら、細いツルの巻かれた持ち手の、藍色の日傘から差し込んだ
涼しい風などひとつも吹くはずがなく、彼女が肩から引っ掛けている日焼け止め用のショールは、その傘を持つ腕の動きで裾が揺れた。
僕たちはもうすぐ式を挙げるホテルに向かって歩いていた。衣装の再チェックと、招待客の件で話があるらしい。
それにしても彼女は鞄がすきだ。
幾つ持っているのか尋ねたことはないけれど、会う度に違うものを持っているような気がする。
季節によってころころ変わるのだ。
肘掛けだったり、肩掛けだったり、手提げだったり、リュックだったり。
エコバッグだってシックなものから、パッと華やかなものまで大きさもまちまちなものを持っている。
それらを彼女はなんらかのルールに則って持ち替えている。ルール? なんの?
それなら何故今日はくたびれ果てた鞄を提げているんだろう? 代わりは幾らでもあるだろうに。
疎らに道行くひとの鞄を見る。
彼女のような編まれた夏物の鞄を提げているひとは少ない。五月の日差しの中、まだ夏物は早いと感じているのかもしれない。五月晴れのあとには鬱陶しい梅雨が控えている。それを乗り越えて初めて、夏物の鞄は活躍するのかもしれない。
不意に視線を感じてそちらを見ると、彼女が僕をじっと見ていた。
「かわいらしい女の子は見つかった?」
一瞬、狼狽える。
どうもほかの女性のスタイルを見ていたことに彼女が気づき、勘違いをしたようだ。
暑さを区切るデパートの入口のシェードはすぐに通り過ぎ、また日差しの元に放り出される。冷房の残滓がするりと背中をすり抜けていく。
彼女は程よく尖った上品な鼻をツンと上向きにして黙っていた。日頃からあまり話す
「違うんだよ。道行く女性のファッションを見ていたんだ。夏のように暑くなったからね」
「物は言いようね。そんなものに興味があるなんて知らなかったわ」
「きみほど夏らしい服装の女性はなかなかいないね」
そこでまた彼女は口をつぐんで、僕をじっと見た。射抜かれそうに強い視線だった。
「まだ早かったかしら?」
「いや。今日の気候に十分合っているよ」
そう、とまた彼女は前を向いて、女性にしては足早に歩き始めた。自分はせっかちなのだと以前語っていた。僕の方がひょっとすると半歩置いていかれるほどだ。
着ていた麻のジャケットの袖をまくり直す。額に汗を感じる。
「やっぱりそろそろアーケードに入りましょうよ? 少し遠回りでもいいじゃない。冷房が効いているわよ。あなた、暑そうなんだもの」
「きみみたいにその日に適切な服を決めることができないんだよ」
「天気予報を見ていればちゃんとできるわ。昨日は『明日は夏日です。紫外線と熱中症に注意してください』と言っていたわ。ほら、あの二十二時のニュースの。あの子も昨日は薄いブラウスを着ていたわ」
天気予報なんて傘がいるかどうかを知るために見るものだと思っていた。しかし女性はそんな細かいことまで気にして、同じものを見ているのか、と思うと改めて男女の差を思い知らされる。
これから彼女は僕の妻になって、毎晩天気予報をこと細かくチェックするんだろう。
そして僕の服装にも気を配ってくれるんだろう。『結婚』という二文字はこうして現実味を日々増していく。
彼女はアーケードに入ると日除け傘をするすると手際良くしまい、例の鞄から薄紫のハンカチを一枚取り出して、汗を細かく叩くようにそっと拭った。涼しい顔をしていても、暑いのは同じだったらしい。
「まだ約束の時間には幾分早いし、お茶をしない? アイスクリームが食べたくなったんじゃないかな?」
彼女はまた僕の目をじっと見た。
僕から見えるのは、彼女の瞳の漆黒と、その中の頼りない自分だけだった。
「じゃあ」
「じゃあ?」
「ちょっと歩くけど一件目をパスして二件目のカフェにしてもらえるとうれしいんだけど」
「全然構わないよ」
と言いながら、少しうれしい気持ちが込み上げてくる。頼りない僕にねだってくれること、そんな小さなことがうれしい。男というのは意外に小さな生き物だ。
傘がなくなった分、汗のひいた手を繋いでアーケードを歩く。僕たちはもうすぐ夫婦になるんだ。確信めいたものが湧き出す。頼りないままの僕ではなくならなければならない。
彼女の指名したカフェまであと少し。彼女に疲れは見えない。いつも通り淡々としている。
しばらくするとカフェに着いて各々欲しいものを注文する。僕はアイスコーヒーを。彼女はコーヒーフロートを。
と、会計という段になって揉めることになった。
コーヒーくらいおごるよ、と言う僕と、まだ結婚したわけじゃないんだから会計は別にしよう、という彼女と。
彼女は早口でそれをまくし立てながら鞄から強引に長財布を取り出そうとした。
――あ。
一瞬の出来事だった。
彼女の鞄の持ち手がちぎれたのだ。
鞄からは普段は整理されているであろう細々としたものがこぼれ落ち、ツヤのない安っぽい床にばらまかれた。口紅がころころと転がっていく。
狼狽した彼女は落ちゆくものを繋ぎ止めようと腕を伸ばしたが、落下の速さには間に合わなかったのだ。
大丈夫ですか、と冴えない顔の若い店員が小声で言った。大丈夫だから、と僕は落ちたものを拾い集めた。
彼女はその時になってそっと腰を低くし、落ちてしまった小さなポーチや先刻のハンカチなどを手早く膝の上に集め始めた。
僕は彼女に拾ったものを返すと、突然のことにおどおどしていた若い店員に千円札を二枚渡し、会計を済ませた。
振り向くと彼女の背中にはかわいそうに動揺が張りついて、いつもよりひどく小さく見えた。
「大丈夫?」
青ざめた顔をして「ごめんなさい」と返事をした。
あの合皮の剥げかけた鞄はどうやら寿命を迎えたらしかった。
僕は先に席を取り、まだ動揺の見える彼女に座るように促した。彼女はまだ雨に濡れた幼い少女のようだった。
「驚いたね」
「ええ、ごめんなさい。こんなことになるなんて」
「仕方ないさ。予想のできないことはたくさんあるんだから」
「いいえ……」
鞄を膝の上でギュッと抱えた彼女はそう言った。
「もう潮時なのはわかっていたの。この鞄は買ってから随分経ったものなの。もう持って歩くのは恥ずかしいと思ったのだけど、今日……今日を最後に処分しようと思っていたの。だからこういう不具合があるかもしれないってことを予想することができたのよ」
天気予報のように?
それはできないような気がした。
「新しいものを買おう。まだ時間はある」
「……そうね、適当に見繕って……」
「その鞄も持って帰ろう。そんなに大切なものをその辺に捨てていくわけにはいかないだろう?」
涙ぐんだ瞳がようやく僕を捉えた。僕の顔は少しは寛大に見えただろうか?
「いただきます」と小声で言って細長い特有のスプーンでアイスクリームを食べ始めた彼女は、まだ小さな女の子のようだった。
その一連の出来事は、結婚前に彼女の意外な一面を垣間見せられた気がして、心を緩ませた。
完璧な人間はいない。彼女もまた、女の子の延長線上に立っているんだ。
彼女の鞄 月波結 @musubi-me
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