五話
頭の片隅で、誰かが呼んでいる声がする。反対のホームから叫ばれているくらいの大きさの声は次第に大きくなっていき、蝶子は布団を引っ張ってその声を遮断した。
「あ、ちょっと! こら、起きろ!」
「……ンンン……あとご、じかん……」
「五分かと思いきや意外と図太い。てかどんだけ寝るつもり? 君って蝶じゃなくて冬眠のクマか何かなの?」
「ん……? 時雨、なんだか今日は声が……」
随分と低いのね、と言って目を開けて、真っ先に飛び込んできた端麗な顔に蝶子は寝台からひっくり返った。悲鳴を上げる前にどすんっという音と共に腰を打ち付けてそのまま悶絶する。その一連の様子を、幽霊少年は冷ややかに見ていた。
「人の顔見て幽霊にでも会ったかのような反応はやめてくれる?」
「いや、いや、いやいや……!」
正真正銘、まごうことなき幽霊じゃん。などと、この傍若無人な幽霊少年様に言えるわけもなく。
(夢じゃなかったんだ……)
許嫁と親友をいっぺんに失い、路地裏で殺人事件の目撃者となった上にへんな化物に遭遇し、更には記憶喪失の幽霊少年に「記憶を取り戻す手伝いをしろ」などと脅された一日が夢であれば良かったのに、という淡い期待は見事に打ち砕かれた。
こうして考えると本当になんて一日だったんだ。昨日の蝶子は一生分の不運が降りかかったに違いない。これからきっと、いいことが……。
「……」
「何? まだ寝惚けてるの?」
いいことが、あると、いいなあ……。少なくともこの幽霊少年がいる限り、蝶子に平穏は訪れない。そんな予感がひしひしとする。
そんな蝶子をよそに、幽霊少年は「起きたならとっとと支度して」と蝶子を追い立てた。のろのろと起き出して打ち付けた腰をさすりながら、蝶子は箪笥の前に立ち。
「……あの」
「何?」
「着替えたいんですけど」
「着替えれば?」
当然のように言う。だがしかし、こればかりは蝶子だって譲れない。いくら三度も縁談を破棄されている蝶子であれど、嫁入り前のうら若き乙女だ。着替えを異性に見られるなんてとんでもない話である。
「ご自分の性別まで覚えてないんですか?」
「馬鹿にしてんの? ……ていうか、そんな貧相な体見て僕が劣情を抱くわけないじゃん。君、自分の弟を見て興奮するわけ?」
蝶子の最愛の弟、北都は今年九歳になったばかりだ。当然ながらまだ兄のような筋肉もなく、ぺらぺらである。つまり幼児体型って言いたいのかこのやろう。顔がいいからって何でも許されると思わないで欲しい。
「しませんけど、それとこれとは話が別です! いいから出て行ってください! さもなくばこのまま引きこもりますよ、そうなったら記憶を取り戻すお手伝いも出来なくなりますが、いいんですか⁉︎」
「……はあ、わかったから大きな声出さないで。頭に響く……」
幽霊の頭にどう響くのかちょっと興味があるが怖いので聞けなかった。
だが蝶子の決死の脅迫はなんとか功を制したらしい。渋々といった感じではあったものの、幽霊少年は部屋をするりと壁を突き抜けて見えなくなった。え、マジか。そんな感じで移動するんだ。
感心している場合ではなかった。蝶子が慌てて寝間着から着替えると、ちょうどその時扉の向こうから「お嬢様、おはようございます。お目覚めのお時間です」と時雨の声が聞こえてきた。
「おはよう、時雨。ちょうど良かった、髪をやってくれると嬉しんだけど」
「お、お嬢様が既に起きていらっしゃる⁉︎」
「えっ何その反応……」
「だって私がここに勤めて十五年、一度たりとも自力でお目覚めになったことのないお嬢様が既に身支度を整えていらっしゃるなんて……! せっかく温かくなってきたというのに、冬物を仕舞うのは早過ぎたでしょうか」
「…………」
ちょっと早起きしただけでこの扱いは心外だ。確かに蝶子は朝が弱く、彼女に起こしてもらわない日など記憶のあるかぎり一度たりともなかったが。
(まあ今日だって自力で起きたわけではないんだけど……)
どこかの傍若無人な幽霊少年に叩き起こされただけだ。だが彼の言う通り、彼の姿は蝶子以外には見えていないのは昨日の時点で実験済みなので、蝶子は「たまにはそういう日もある」と曖昧に笑うだけに留めた。親友に婚約者を取られて、殺人事件に遭遇して、さらに記憶喪失の幽霊少年に取り憑かれたなんて言えば即病院に連れて行かれそうだ。もちろん頭の。
鏡台の前に座って時雨に髪を梳って貰っていると、どこからともなく幽霊少年が帰ってきたので蝶子は引き攣った笑みを浮かべた。
「はい、出来ましたよ」
鏡の中の蝶子はこめかみあたりから編み込みにされ、襟足でお団子に纏められている。リボンは袴に合わせた藤色だ。さすが時雨、天才すぎる。
「ありがとう、この髪型すごく可愛い」
「よくお似合いでいらっしゃいますよ。さ、朝食が出来ておりますのでどうぞ」
「はーい」
時雨が先に向かうのを見届けて、蝶子は少年の方をくるりと向き「行ってくる」と口ぱくで言った。彼はやれやれと言った感じで蝶子の部屋の丸卓に腰掛け「早く行け」と手を振る。誰の部屋だと思っているんだ。
いつもの朝食を終え、蝶子が部屋に戻ると露台の前でぼんやりと外を眺めていた少年は振り返って「おかえり」と言う。
(自分の部屋に名前も知らない男の人がいるのって変な気分……)
もう昇との婚約は白紙に戻っているが、そうでなければ罪悪感で寝込んでいたかもしれない。そう思うと、彼と出会ったのが今でよかったと思わなくもないが、そもそも昇とのことがなければ紅椿通りには行かなかったので彼と出会うこともなかっただろう。
「ねえ、幽霊少年」
「その品のない呼び方、やめてくれる?」
「じゃあ何とお呼びすればよろしいです?」
「知らないよ。自分で考えて」
このやろう! いけない、心の中とは言え、つい淑女らしからぬ言葉遣いをしてしまった。いつ、いかなる時も淑女としての心の余裕を持つべしというのが母の教えだ。
「それはつまり、私が勝手に名前をつけてよろしいと?」
「だから、好きにしたら? でも変な名前付けたらぶっ飛ばすから」
「横暴……」
「なんか言った?」
「いえ、何も」
クロとか付けたら怒られそうだ。と言っても、なんと名付けたら良いか……蝶子は部屋の中を見回す。そして本棚に収められている一冊の本が目に止まった。
「……ミラ」
「うん?」
「ミラ、はどうですか? この本に出てくる男の子の名前なんですけど、彼もまた記憶喪失なんです」
「……くじら座の少年?」
蝶子が見せたのは「くじら座の少年」という小説だ。七年前の本ではあるが未だに根強い人気があり、舞台化もされている。あの今をときめく舞台俳優、
幽霊少年は本と蝶子を見比べた後「ふーん……まあ、いいんじゃない?」と言った。お気に召したらしい。
「じゃあ、ミラって呼ぶわね。それで、ミラは記憶を取り戻す手伝いをしてほしいって言うけど、それって具体的にどんなお手伝いしたらいいの?」
当然であるが、生まれてこのかた記憶を取り戻す手伝いなんてしたことがない。考えうる手段といえば自然に思い出すのを待つくらいだが、出来ることなら早めに思い出してもらって解放されたい。
「僕もわかんない」
「まじか」
いけない。彼と話していると蝶子のなけなしの淑女の嗜みがすぐ家出してしまう。
「私、健忘症の方と出会うのはこれが初めてなのでさっぱりなんですが」
「僕だってそうだよ。覚えてないけど」
「でしょうね!」
「とりあえず僕が死んでるのは確実なんだし、新聞とかに載ってるお悔やみ欄で近い年齢の人間を探したら?」
「なるほど……」
昨日は顔以外まじまじと見る余裕がなかったが、見た目は蝶子と同じくらいだろうと思われるので、大体十七前後だろうか。濃紺のフロックコートにダークグレーのベスト、白いシャツにタイ、彼の瞳と同じ色のカフス。どう見ても、富裕層のお坊ちゃんといった格好だ。となるときちんと死亡届は出される、はず。たぶん。なら彼の言うように、お悔やみ欄を洗えばピンとくる名前もあるかもしれない。しかしまずは。
「……とりあえず、学校に行かないと」
「そうだね。じゃあ行こうか」
「えっまさかついて来るつもりじゃ……」
「なんで?」
まだ一日も経っていない短期間であるが、彼のこの「なんで?」が「なんで着いて行っちゃだめなわけ?」という意味であることは何となくわかった。蝶子はすでに諦めの境地で「絶対余計なことしないでよね」と釘を刺し、勇次郎の待つ玄関へ向かうのだった。
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