四話

 ようやく家に着くと、時雨や母が心配そうに出迎えてくれた。彼女たちの間から小さな人影が飛び出してくる。

「姉様ッ!」

 とんっと軽い衝撃が腰あたりにあった。八つ年下の弟、北都ほくとだ。兄弟の中で一番母親である織子に似ている彼は大きな黒曜石の瞳を潤ませて蝶子を見上げる。

「大丈夫ですか、お怪我や、ひどい目にはあったりしていませんか」

「大丈夫だよ、北都。心配してくれてありがとう」

 お腹らへんにある頭を撫でると「姉様の大丈夫は全然大丈夫じゃないんです」と大人びた口調で言う。これでまだ九歳になったばかりなのだから将来が怖い。いつまでこうやって姉として無邪気に接してくれるだろうか。

 ふと顔を上げると、ひどく青褪めた勇次郎の姿があった。彼は蝶子と目があうと、深々と頭を下げて謝罪した。

「お嬢様……申し訳ございません、この罰はいかようにも」

「な、何で勇次郎が謝るの! お母様、違います。私が今日は一人で歩いて帰りたいって言ったんだからね、勇次郎を罰したりしないでね⁉︎」

「もう、わかってますよ。でもしばらくは寄り道禁止よ。する時は必ず、送迎を待つこと。いいわね?」

「はい……」

 当然の処置だ。むしろ外出禁止を言い渡されてもおかしくない状況なので、蝶子は大人しく頷いた。

 そのまま湯浴みを済ませ、蝶子は真っ直ぐ自室の寝台に飛び込んだ。瑛国風の天蓋付きのベッドはかすかにお日様の匂いがする。

「はあ……もうこないだから散々だよ……」

 ごろりと寝返りを打つ。すると寝台の向こうにある露台バルコニーに出られる窓の前に、誰か、見知らぬ男が立っていた。

 蝶子ははっとして起き上がり、息を吸う。そして。

「────きゃああああああああああ‼︎」

 今度こそ力一杯、声をあげた。

「どうしたんだ蝶子!」

「お父様、お母様! 窓辺に知らない男が……!」

「窓に……? 誰もいないが」

 扉を蹴破らん勢いで入って来た父に抱き留められ、恐る恐るそちらを見る。そこには見慣れた大きな窓とクリーム色のカーテンがあるだけで、誰もいなかった。

「あ、あれ……?」

 おかしい。この目でちゃんと、見たはずなのに。

「あなた疲れているのよ。無理もないわ、いろいろあったもの」

 気遣わしげな母の声に、蝶子は先程自分が見たものが疲れからの幻覚だったのではと思い始めた。むしろ見知らぬ男が部屋の中にいるよりそっちのほうがいい。そうだ、疲れていたんだ。黒い男の幻覚をひとりやふたり見ることだってあるだろう。……たぶん。

「騒がせてごめんなさい、もう今日は休みます」

「そうしなさい。あとで外国の薬草茶でも淹れてきてあげるわ。安眠効果があるそうよ」

「ありがとう、お母様」

 両親が出て行った後、蝶子は再び寝台に腰掛ける。すると。

「……全く、大きな悲鳴だったな。鼓膜が破れるかと思ったよ」

 そんな声が聞こえて、蝶子は再びぴしりと固まった。恐々振り返ると天井付近で腕を組んでいる少年が一人、

 

 ──────


「あ、やっぱり君、僕が見えるんだ。へえ、なんでかな。見た目は普通の子なのに」

「……ゆ、ゆゆゆゆ、ゆう」

「あ、叫ばないほうがいいよ。僕の姿見えるの君だけっぽいし、こんなの普通に頭おかしいって思」

「い、いやー! こっち来ないで! え、こういう時どうしたらいいの待ってまってまって、む、無病息災悪霊退散ッッッ!」

「………………」

 しかし、なにも、おこらなかった。

 おまけに幽霊から呆れた顔された。つらい。

「いや無病息災って。そもそもこの美少年のどこが悪霊に見えるっていうわけ。その目は硝子玉か何かなの」

(自分で美少年って言っちゃうんだ……)

 確かに、彼の顔立ちは大変に整っていた。すっと通った鼻筋に薄くて形のいい唇。長い手足。後頭部でひとつに結われた髪は蝶子と同じ見慣れた黒髪であるが、瞳はあまり見ない翡翠色だ。もしかしたら外国とつくにの血が入っているのかもしれない。姿だけでいったら、十人が十人、すれ違いざまに振り返ってしまうような美少年である。

 そこで蝶子は「あっ」と声をあげた。彼の顔に、見覚えがあったのだ。

「あの時助けてくれた男の子!」

「えっ今更気付いたの? 君、鈍臭い上に頭も弱いんだね」

 初対面でひどい言われようである。確かにお世辞にも機敏なわけでも頭の回転が速いわけでもないので、反論出来ないのが悔しいところであるが。

 ふよふよと雲のようにその辺を浮かんでいた少年は蝶子の前にゆっくりと降りてくる。蝶子が身構えながら一歩後ずさると、いかにも気分を害したと言わんばかりに顔をしかめた。しかめっ面も整っているとかどういうことだ。

「それじゃあ、君、僕に何か言うことがあるんじゃない?」

「え。あっ! あの、助けて頂いてありがとうございました」

「それだけ?」

「それだけとは……?」

 まさか助けたお礼に金品の要求でもされるのだろうか。いや、幽霊に金品渡してもどうしようもなくないか。豚に真珠、馬の耳に念仏、幽霊に貴金属である。いや、そうだ幽霊が欲しがるものと言えば─────大抵相場が決まっているではないか。

「お、お願いします命と体だけは……!」

「はあ?」

「ひっ」

 寝台の枕を盾のように構えて距離を取る。幽霊少年はそんな蝶子をまるで汚い浮浪者でも見るような目で睥睨へいげいし「そんな貧相なの、頼まれても要らないんだけど」と言った。幽霊に貧相とか言われた。つらい。

「まあでも、何かお礼したいっていうならさせてあげてもいいよ。久世蝶子さん」

「なんでわたしの名前を⁉︎」

「さっき君の両親が呼んでいたじゃないか」

 それもそうだ。何か蝶子の知らない幽霊特有の超能力とかで名前がばれたのかと思った。

「それより、君はさっき、僕に助けられたよね? ってことは僕に借りがあるわけだ」

「な、何がお望みなん、ですか」

 金、命、体でもないとすれば一体何を御所望なのか。あまり無理難題でなければいいなと思いつつも、この幽霊少年に助けられたのは事実なので出来る限りのことはしたい。

 そこではたと気付く。

「そういえば、あなたは何てお名前で?」

 自分は知っているのに相手を知らないとは不公平だ。そう思って訊ねると、幽霊少年は「よくぞ聞いてくれました」とばかりに話し出した。

「実は僕、記憶がないんだ」

「……きおくがない」

「そう。自分の名前とか生まれた場所とか家族とか、何でこんなとこでこうやってるのかとか全く覚えていないんだよね。気が付いたらあそこの路地にいて、あそこから動けなくてさ」

「つまり、記憶喪失の幽霊少年……」

「少年の前に美をつけて欲しいんだけど、まあ、そういうことだね」

「それはまた、災難ですね……」

 見たところ蝶子と大して変わらない年頃だ。若くして亡くなったばかりか記憶までないなんて、蝶子の生きてきた十七年分の不運を合わせても足りないくらい運が悪いのでは。それとも生前の行いが……と考えて、何故か睨まれた。声に出していないのに……!

「誰も自分を認識してくれないし、物には触れるんだけど、人には触れなくてさ。触ろうとすると静電気がばちばちーってなっちゃうんだよね。まあ、応用すれば今日みたいなことも出来るってわりと最近気付いたんだけど」

 あれ。もしかして、鐘子が追っていた紅椿通りの彷徨い歩く幽霊って……と考えて、いや、今は考えるのはよそうと思い直した。藪蛇を突くことはない。

「そんな時に、君が現れたんだ。これは是が非でも取り憑……いや、助けてもらおうと思ってさ」

「今、取り憑いてって言いました? 取り憑いてって言いましたよね?」

「助けて欲しいって言ったんだよ。何、別に難しいことじゃないよ。僕の記憶を取り戻す手伝いをして欲しいだけだから」

 にっこりと微笑むその顔は、彼の本性を知っていても思わず顔を赤らめてしまうくらいには美しい。神様ってなんて悪戯好きなんでしょう。こんな男にこのような天上の美貌を与えるなんて、時代が時代であれば国のひとつやふたつ傾けたに違いない。

 ていうか、幽霊の記憶を取り戻す手伝いが難しくないってそんなわけあるか。どう考えても難易度鬼である。

 しかし記憶喪失の幽霊少年は怨霊も鬼も裸足で逃げ出しそうな笑顔で、震える子兎みたいな蝶子にこう言った。

「まあ、もちろん君に拒否権はないんだけど。あ、逃げても無駄だよ。どこまでも、地獄の果てまで絶対追いかけていくから」

「もはや祟りじゃないですか!」

「失礼だな。でも、ま、僕は心が広いから許してあげるよ。よかったね?」

(全然ちっともよくない!)

 けれどそんなこと言えるはずもなく、こうして人生で三度目の婚約破棄に続いて記憶喪失の幽霊(美)少年に取り憑かれることなったのだった。


 ああ、本当に……なんて一日だ!

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