三話
(平穏が欲しい……)
帝都の大通り。今日は歩きたい気分だと言って勇次郎には先に帰ってもらい、人の流れに逆らわずに蝶子はゆっくりと歩く。あちこちから聞こえる話し声、店売りの客引き、露店の何かを焼くいい匂い、車や馬車の音。その中で、蝶子はもう一度溜息を吐いた。この世界で一番不幸な顔をしているような気さえする。
「ん……?」
ふと蝶子の目にとある広告のビラが目に入る。星空を背景に一組の男女が描かれたそれは、この先にある帝都劇場で今度行われる舞台演劇の宣伝だった。
(え、主演、
来てくれるかなと思ってからいやいや、どこの世界に破談になった元許嫁の誘いに乗るやつがいるんだ! と頭を抱えた。おまけに未だ彼は入院中である。
(まだ頭が追いついていないのかな……)
今日の昼休みの一件を思い出して、じくりと心臓が嫌な音を立てる。
(……ああ、もう)
悪い感情を振り切るように歩き出す。宛てなんてない。ただひたすらに、体を動かしたい気分だった。
両親の大恋愛結婚を聞かされて育ったので、結婚というものに多大な夢を見ていた頃もあった。だが自分の悪癖や二度の婚約破棄を経てそう言った気持ちはとっくに消え失せていた。両親を安心させられるなら誰でもいい、とまではいかないけれど、それくらいの気持ちでいた。
けれど彼は蝶子には勿体ないくらい、素敵な人だった。お洒落で優しくて、包容力があって、よく蝶子の趣味である演劇鑑賞にも付き合ってくれたし、一度だって蝶子を「二度も縁談を破談になった縁起の悪い娘」なんて蔑んだ目で見なかった。最初こそ蝶子の悪癖には驚いていたけど、衣緒が間に入ってくれて、段々虚勢を張らずとも話せるようになっていった。
こんな素敵な人が生涯の伴侶となるのならお見合い結婚も悪くない。そう思っていたのだ、昨日まで。
(そういえば神楽坂白星主演の演劇、衣緒と昇さんの三人で観に行ったな……)
ちょうど昨年の春の公演だった。誘った時、衣緒は「あたし邪魔者じゃん。てか興味ないんだけど」と言って遠慮しようとしていたのだが、券が一枚余ってしまって空席を作りたくないと無理やり連れて行った。
案の定、彼女は途中寝てしまって、蝶子は大号泣して自分のものだけでは足りず、昇のはんかちまでぐしゃぐしゃにしてしまったのを覚えている。
気付いていなかっただけで、あの時すでにふたりはそういう仲だったのかもしれない。なんて滑稽な話だろう。邪魔者だったのは蝶子の方ではないか。
(ほんと、私ってこういうとこが鈍いんだ)
虚勢ばかりで言いたいことも言えず、誰かを傷付けていることにも気付かず。
幼い頃から何でも話せる親友だと思っていた。昇のことも、上手くやっていると思っていた。まさか二人とも同時に失うことになるなんて。
結局、蝶子が落ち込んでいるのはふたりの仲がそういうものであったかどうかじゃなくて、こういう形でふたりの関係を知らされたことが嫌だったのだ。一番の親友だと思ってたのに。昇のことだって死のうとするくらいなら、話してくれたらなんとか……出来なかったかもしれないけど、それでも何か方法を考えたり出来たはずだ。
でも、衣緒も昇もこういう蝶子に内心嫌気がさしていたのかもしれない。そう思うと堪らなかった。
「はあ……」
もう溜息しか溢れない。ひたすらに歩き続けて、気が付けば見覚えのない通りに出ていた。墨染通りからそう離れていないはずなのにどこか薄暗く、人通りも少ない。裏路地に迷い込んでしまったようだ。
(もしかしてここ、例の彷徨う幽霊が出るって噂の紅椿通り……?)
帝都はとにかく広く、端から端まで徒歩で行こうと思えば半日かかる程だ。おまけにいつもは車か馬車なので、十七年住んでいるとは言え、道に詳しいわけでもない。
(……もう帰ろう)
お金だってそんなに持っていないし、うろうろしていたって仕方ない。蝶子は車を拾おうと踵を返して来た道を戻ろうと歩き出した。
その時だった。不意に妙に喉が痛くなるくらいの甘い匂いがした気がして、蝶子はすんっと鼻を鳴らす。何だろうと思いながらも、早く元の道に戻ろうとした時、びゅうっと強い風が吹いた。咄嗟に髪を押さえるが。
「あっ!」
結んでいたリボンが飛ばされてしまった。藤色に白のレース模様の入ったやつで、昇が今年の誕生日に贈ってくれたお気に入りだった。
「……ああ、もう!」
考えたのは一瞬だけだった。蝶子はリボンを追いかける。風に運ばれたリボンは意外にもすぐに見つかった。くすんだ石造りの建物の間に馬車が一台通れるくらいの道があった。その道の真ん中に人影があり、その人の足元に落ちていた。
それだけなら、蝶子も別になんとも思わなかっただろう。
しかしその人影の足元にはリボンの他に、もう一人、横たわっていた────まるで獣に食い荒らされたかのように、無惨な姿で。
ぴちょんと雨雫が落ちるような音がやけに大きく響く。もちろん、雨なんてここ数日降っていない。それがその人影の指先から、髪から、足元の血溜まりに滴り落ちる音だと気付いた時、蝶子は体の芯が凍ったように動けなくなった。
────逃げなくちゃ。
そうだ、相手に気付かれる前に早く逃げないと。幸い、その人影は蝶子に背を向けている。この通りを出て、すぐに誰か、誰でもいいから呼ばないと。
ゆっくりと後退する。その時、ガタンっと何かを蹴った。足元に積まれていた木箱に気付かなかったのだ。
(やばい!)
はっと前を見れば先程まで獲物を見ていた人影が────首だけ、こちらに向けていた。
「…………」
人体って、首だけ真後ろに向けたっけ? ……いやいやいやそんな梟みたいな芸当が出来るわけない。骨とか筋肉とかその他諸々があって精々斜め後ろを見れるくらいだ。なのに何故、体をあちらに向けたままこちらを向いているのだろう。しかもよく見れば肌色もちょっと人と心配になる色をしているし、あちこち縫合跡のようなものも見える。咄嗟に考えが及ばず、数秒、見つめあった後。
その人がニタリと、いくつも抜け落ちた黄ばんだ歯を見せて笑った。
「────────ッ‼︎」
人は恐怖を前にすると本当に声が出なくなるのだと、蝶子はこの時初めて知った。逃げようにも完全に体が固まってしまって、自分の体なのに指先ひとつ思うように動かせない。それはすでに蝶子のすぐ目の前まで来ていた。腐りかけの花のような、甘ったるい香りが鼻腔をくすぐる。
(どうしよう、どうしよう、やだ、だれか……)
────誰か助けて!
その瞬間、目の前で火花が弾けた。ばちっという強い静電気のような衝撃と共に、目の前から一瞬それが遠のいた。
蝶子は目を白黒させて呆然としていたが、不意に目の端にひとりの男の子がいることに気が付いた。
恐らく同い年くらいの青年は珍しい翡翠色の目を吊り上げて蝶子たちを睨んでいた。が、すぐにその視線は蝶子に向けられた。
「君は何ぼけっとしてんだよ、早く逃げろッ!」
「!」
はっとして我に帰った蝶子はそのまま一目散に逃げ出した。墨染通りに出れば人もいるし、軍警もある。とにかく今は逃げなければ!
「は、はっぁ……はっ……」
息も絶え絶えになりながら大通りまでやってくると、通りがかる人々は蝶子の乱れた髪や形相にちらちらと視線を送るが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。蝶子は後ろを振り返る。あの化物が追いかけてくる様子はない。ひとまず助かったようだと胸を撫で下ろす。
すると安心と共に恐怖が湧き上がってくる。まだ歯の根が噛み合わず、蝶子はその場にへなへなと崩れ落ちてしまった。
「もし。お嬢さん、大丈夫かい?」
「あの……む、むこうに……」
近くを通った老夫婦が蝶子の並ならぬ様子に声をかけてくれた。蝶子は変な化物がいてすぐそばに死体があったこと、見知らぬ少年が助けてくれたことを何とか話した。
老夫婦の旦那の方が軍警を呼んできてくれ、蝶子はそのまま、奥方に付き添われて軍警まで保護された。
しかし。
「え、化物も誰もいなかった……?」
「ああ、ただ死体がひとつあっただけだ」
現場検証した軍警によると死体は見つかったが、あの化物も少年の姿もなかったそうだ。ということは、あの化物は今もこの帝都のどこかを徘徊しているということ?
ぞっと腕をさする。蝶子が青褪めて震えていると、年若い軍人さんがそっと温かいお茶を差し出してくれた。お礼を言ってそれを受け取った時、ちょうど部屋に見覚えのある姿が飛び込んできた。
「蝶子! 大丈夫か⁉︎ 怪我は?」
「
濃紺の軍服を纏った兄、左京は蝶子の返答に「そうか」とほっと息を吐いた。蝶子も兄の顔を見ると急に緊張が解けたのか、じわりと視界が滲む。
「しかし、何だってあんな路地に入ったんだ」
「髪のリボンが飛んじゃって」
「リボン?」
左京が何も結ばれていない蝶子の髪を見て、先程お茶を出してくれた軍人を見る。彼はすぐ「知りません」と首を振った。そういえば、あのリボンはどうしたのだろう。現場検証に出た軍人たちもリボンのことは知らないようだった。また風に飛んでしまったのかもしれない。
(気に入っていたけど……仕方ない。きっと縁がなかったんだ)
贈り主とも。きっと、そういうことなのだ。なんだか別の意味でも泣きたくなって、蝶子はぐっと唇を噛み締めた。
「少佐、今日のところは妹さんと帰宅してあげてください。あとの処理は僕らでやっておきますから」
「もう定時だってのに悪いな、星村。代わりに明日半休……取れたら取っていいから」
「ははは。期待しないでおきます」
お茶を出してくれた彼は星村さんというらしい。軍人といえばいかにもといった父や、目の前にいる見た目は外国の王子様のような顔なのに中身がどうしようもない乱暴者な兄の印象強かったが、あんな線の細い温和な方もおられるのだなと思った。
「車で送ってやる。母さんたちにはもう連絡してあるから安心しろ」
「うん……」
「全く。無事だったからよかったものの、最近身元がわからない死体遺棄事件が多発してるって学校から連絡回ってなかったか?」
そういえば今日の朝礼で妙先生がそんなことを言っていた気がする。
「いいか、あまり一人でうろうろするんじゃねぇぞ。いいな?」
「うん……」
「なんだよ、今日はやけに素直だな」
大きな手にくしゃりと頭を撫でられると、ようやく安心感に包まれた。助かってよかったと心の底から思う。
(あの男の子は無事だったのかな……)
死体がないということは、たぶん、無事だっただろうと思いたい。名前を聞くどころかお礼すら言えなかったのが悔やまれる。またどこかで会えたら、その時はちゃんとお礼をしよう。
蝶子はそのまま左京の車に乗せられて、家路に着く。外はもう真っ暗で、ガス燈の灯りが煌々と街を照らしていた。いつもはその地上の星の様な風景を眺めるのだが、今日は建物の隙間の闇夜にあれが潜んでいるのではと怖くなって、蝶子は助手席で縮こまった。
「わっ?」
蝶子がぎゅっと目を閉じると、頭に何かがかけられた。甘くて苦い匂いが目の前いっぱいに広がり、目を開けて見れば左京の着ていた軍服の上着だった。
「眠かったらそれ被って寝てていいぞ」
「……煙草くっさ」
「てめェ人の好意を何だと思ってやがる。嫌なら返せ」
「嫌だとは言ってないじゃない」
「あ、そ。……あ、コラ座席に足あげるなら靴脱げ。俺の愛車が汚れるだろうが!」
「大して変わらないでしょ」
「このクソガキ振り落としてやろうか……」
そうは言いつつ、彼がそんなことをしないことを蝶子は知っている。童顔だが喧嘩っ早いし煙草はがしがし吸うし、外見詐欺とよく言われる左京だが、なんだかんだ面倒見が良くて優しいのだ。
蝶子はちゃんと靴を脱いで足を抱え、左京の上着を被って目を瞑った。あまり得意ではない煙草の匂いが、今は泣きたいくらい心地よかった。
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