二話
「ちょっと蝶子さん! 西園寺との縁談、白紙になったって本当ですの⁉︎」
翌日、蝶子が女学校へ登校すると隣の学級である
帝都女学校に通うのは当然、富裕層のご令嬢たちである。
時間を持て余している彼女たちの大好物は噂話、とくに色恋ごとと他人の不幸だ。
「それでご自分の婚約者と竹馬の友である三枝男爵家のご令嬢との道ならぬ恋を知った蝶子さんはいまどんなお気持ちでいらっしゃる? ぜひ、ぜひ、一言下さいな!」
どこからともなく鐘子はメモ帳と万年筆を取り出してきて、ずいっと蝶子に詰め寄った。彼女はこの女学校で校内新聞を手掛けている新聞
未だ女性が前に出ることに否定的であるこの時代、蝶子とは別の意味で学校では浮いている存在だ。それはそれとして、蝶子は彼女が昔から苦手なのだった。
「やっぱりショックだった? 悔しかった? 悲しかった? そりゃそうよね、婚約者がまさか親友となんてね! しかも心中ですって!」
「未遂です」
「ええ、ええ、そうね。お二方とも命に別状はないとのことだものね。お見舞い申し上げるわ。……それで?」
「それでとは?」
「やあね、読者はあの久世のお姫様がどのような仕返しをなさるのか興味津々なのよ。ねえ、こっそりと私にだけは教えてくださる? 私とあなたの仲でしょう?」
(いや、どんな仲よ)
確かに初等部から同じ学校であるが、代わり映えのしない持ち上がりの学校では学級全員が似たようなものだ。通りすがりに挨拶くらいはするが、親しいかと言われたら速攻で首を振る。
「そう言ったことは家同士が話し合って決めることです。私からは何もありません」
「ふーん」
(つまんないって顔にはっきり書いてあるな……)
蝶子が意外と淡々としているので面白くないらしい。初等部からの級友であるが、本当に失礼な人だ。
「まあそうね、蝶子さんにとっては三度目の婚約破棄ですもの。縁切り蝶々の名は伊達ではないってこと」
「……」
その渾名に、蝶子は淑女の嗜みも忘れて思いっきり顔をしかめてしまった。
─────そう。蝶子にとって婚約破棄はこれが初めてではない。
一度目の婚約者はやはり父の同僚である子爵家のご令息だった。が、彼は蝶子よりも体が生まれつき悪く、流行病であっさりとこの世を去った。この時、蝶子も相手も四歳である。顔すら知らない相手との婚約は蝶子が物心つく前に終わっていた。
二度目の相手は兄の同級生だ。蝶子の兄、左京は十七の時に瑛国へ留学していたのだがこの時の
しかし、彼は不運な事故に遭い、帰らぬ人となった。
そして三度目。この国には三度目の正直という諺があるが、残念ながら二度あることは三度あるの方だったらしい。
誰が最初に呼び出したのか、二度目の時点で蝶子には「縁切り蝶々」などという不名誉な渾名を付けられて周囲からは嘲笑と奇異の目に晒されることになった。
母も父も、当時は社交会で随分、嘲りと憐みを受けたらしい。勿論、蝶子と違って両親はそれらを一蹴し、逆に口差がない者たちを追い立てたらしいが。相手が今どうなっているかは、蝶子は知る由もない。
そもそも、どちらの破談も蝶子に不義があったわけではなかった。
しかし、伯爵家の娘とはいえ二度も縁談が白紙になった縁起の悪い女など誰が貰ってくれようかという時に、祖父がやっとの思いで取り付けてきた縁談が昇との話だった。
それがこのような形で破談になったとなれば当然、このような
(ここまではっきり言われるとね……)
さすがに気分がいいものではない。蝶子は顎を持ち上げて目の前の鐘子を見下ろした。学級でも高い方である蝶子が少し顎を上げるとかなり威圧的になってしまうので、控えなさいと母に言い含められていたが、これは正当防衛だ。
「今回の騒動について、現時点で私から申し上げることは何もありません。そのような無駄かつ無益なことにお時間を割く余裕があるのなら、もっと有益なことに使われては如何でしょう? それともここで憐れっぽく泣いて、皆様の同情を買うことがお望み? ……はっ、結構なご趣味ですこと」
こちらを窺っていた級友たちをちらりと見ると、慌てて目を逸らされた。目の前の鐘子といえば口をへの字に曲げて、朝礼を告げる鐘の音と共に入ってきた妙先生と入れ代わりに「今日はこの辺で勘弁して差し上げますわ」と言って出て行った。何だその見事な捨て台詞。
「はい、皆さん席について。朝礼を始めますよ。まず連絡事項からです。新聞でも取り上げられておりますが、最近身元不明の遺体遺棄事件が多発しておりますのでくれぐれも……」
(……あー)
担任の声を聞きながら、蝶子は一人呻いた。後悔先に立たずはよく言ったものである。級友たちは皆、腫れ物を触るかのように蝶子に視線を送りながらひそひそと内緒話をしていたが、決して話しかけるようなことはしなかった。……いや、これは元からだったか。
(平穏が欲しい……)
窓の外を見ながらぼんやりとそんなことを思った。
**
「ねえ聞いた? すみれ組の久世さんのこと」
「聞いた聞いた! 三枝さんが略奪愛の末に心中でしょ? 意外よね、三枝さんってそういうことしなさそうな子だと思ってたのに」
「いつも蝶子さんに連れまわされて可哀想だったものね。女王様と下僕って感じで。いい加減、三枝さんも嫌になったんじゃない?」
「あり得ますわねー」
「大体、お相手の方だって婚約者があれじゃお隣にいる可愛らしい方に浮気だってしたくなるわよねぇ。お家柄は良いけど、でもそれだけでしょう?」
「ねー」
(…………お弁当の場所、ミスったな……)
どこにいても好奇の目に晒され、うんざりした末にこっそりと裏庭の木の下にハンカチを敷いて食べていたら近くのベンチで食べていた彼女たちの話声が聞こえてしまった。しかし立ちあがろうにも、今立てば彼女たちに見つかってしまう。
「だってこないだのあれ、見た? せっかくカフェーに誘ってやったのに。小鳥みたいに群れるのは趣味じゃないですし、そんな暇でもないので。……ですって!」
「あはは! 似てる〜」
「こっちだって別にアンタと行きたくて誘ってるわけないじゃない、ねえ?」
「そうそう〜親から仲良くしておけって言われてるから声かけてるだけで、誰があんな嫌味な女とカフェーでお茶したいって思うんだって」
「…………」
ぎゅっと唇を噛む。そうか、そうだったのか。
(そりゃそうよね……)
女王様と下僕、召使。家の権力を傘にしてる悪女。そんなのは散々言われてきたことだ。だがこれは悪癖を直せない蝶子が悪いのであって、言われても仕方のないことだと思う。傷付くのは狡いし、自分勝手だ。
(……衣緒も、昇さんも、やっぱりそう思ってたのかな)
喧嘩をすることもあるが関係は良好だと思っていた。二人とも、蝶子の悪癖の裏にある言葉をきちんと理解してくれた。虚勢で着飾って、本音で生きることに臆病になった蝶子の本当を知っている数少ない人たち。
でもそれは、結局蝶子の人よがりだったのではないか。
現に蝶子は二人がそういう仲であったことなんてこれっぽっちも知らなかったし、気付けなかった。親友だ、良き許嫁だと思っていたのは蝶子だけで。
─────二人の本音を蝶子はちゃんと聞いたことがあっただろうか。
「あら、こんな隅っこでひとりぼっちでお弁当を食べている寂しい方はどなたかと思えば今話題の方ではありませんか」
頭上から降ってきた声に蝶子は視線だけで答えた。蝶子の学級にいる、もう一人の問題児─────
癖のない艶やかな黒髪を真紅のリボンで纏め、頰に添えられた指先には磨かれた桜色の爪がお行儀良く並び、海老茶の袴には可愛らしい小花の刺繍。頭の天辺から爪先に至るまで、すべてがお手本のような貴族のご令嬢である。性格の方も。
「ご機嫌よう、巴さん。今日も賑やかでいらっしゃいますね」
「そういう蝶子さんはいつもにも増して静かでいらっしゃいますわねぇ」
くすくすと彼女の後ろにいた取り巻きの少女たちが掌の向こうで笑う。確か
「ああ! やけに静かだと思えばそうでしたわね、いつも連れ回しているワンちゃんが今日はご一緒ではなかったのですわね」
「そうそう、噂はうちの組まで届いていますわよ」
「あの久世のお姫様が、まさかどこの女が産んだかもわからないような下賤の生まれの娘に許嫁を盗られるなんて! なんてお可哀想なんでしょう」
「やっぱり、庶子上がりの卑しい娘は人のものを盗ることが悪いことだと教えて貰えずに育てられるのかしらね?」
「蝶子さん、気にすることなんてないわよ。悪いのはあちらだもの」
可哀想という割に口元が笑っているのだが。耳障りな笑い声は漣のように広がって、蝶子の背後からも聞こえてくる。
彼女らは蝶子を慰めているふりをして、衣緒も蝶子のことも貶めているのだ。蝶子のことは自分より格下の家の娘に許嫁を盗られた間抜けと詰り、衣緒のことは他人の許嫁を奪う卑怯で下賤な娘だ、と。
蝶子は弁当箱を片付け、すっと立ち上がった。そしてにっこりと微笑んでやる。
「お気遣いどうもありがとうございます。ですが、無関係な他人の色恋ごとに首を突っ込んでやいやい言うだなんて、皆様は随分とお育ちがよろしいのですね?」
「っ……」
かっと巴の顔が朱に染まる。それを横目で流し、それからベンチにいた少女らを見た。
「ところで。秋津島家の絢子様に、そちらは安曇野男爵家の初音様ですね。文化省と鉄道会社にお勤めのお父様方はお元気でいらっしゃる?」
「えっあ、いえ、」
「久世さん、あの、違、これは」
「お隣の稲垣夕子様のお家は宝石業を営んでいらっしゃると記憶しておりますが、母がいつもお世話になっております。今度、是非一度、
「な、待ってください、父は今関係なくて、これは……」
「関係ない? まあ、そんな。よく知りもしない、無関係の他人の、噂話を大声でお話出来るくらい、立派なお嬢様方を育てられたご両親でしょう? 一度、教育についてお聞かせ頂けたら嬉しいですわ」
きっちり区切って「よく知りもしない」「無関係の他人の」「噂話」を強調しながら言うと少女たちはあからさまに青褪めた。家が宝石店を営んでいる夕子など、目に見えるほど震えている。母は今でも社交界の最先端を行く先駆者だ。彼女が身につけた宝飾類は翌日には完売御礼となるほどである。
(後悔するくらいなら言わなきゃいいのに)
それはもちろん─────自分も同じなのだけれど。彼女たちを糾弾出来るほど自分が優れた人物だとは思っていない。けれどここまで言われて黙ってられるほどお人好しでもないのだ。
青褪めたり真っ赤になっていたり、様々な顔色をしたご令嬢たちを横目に、蝶子は弁当包みを持って「それでは、ご機嫌よう」とその場を後にした。
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