一話
「───────ああ、キリエ・エレイソン。繰り返し、
「はい、そこまで。素晴らしい朗読でしたよ、
まだ生徒の少女らとそう変わらない、歳若いの教師が一つ二つ手を叩いて褒めそやした。朗々と手元の教本の一文を読み上げていた蝶子は顔を上げて、つんと顎を持ち上げる。
「無理して褒めて頂かなくて結構です。このくらい、出来て当然ですから」
「ああー……ええっと、でもあの、先生は本当に蝶子さんの音読は聞き取りやすくて素晴らしいと思って……」
「お世辞は不要です。授業を進めてください」
「あ、はい……そのう、では次の節から、夕子さん」
「はい」
後ろの席の少女が蝶子と入れ代わりに立ち上がり、続きを朗読し始める。その隙間に学級の少女たちはこそこそと蝶子の態度について言い合う。
「……何もあんな風に言わなくてもいいのにね」
「ねえ。妙先生が御可哀想」
ちらりと蝶子がそちらを見ると、彼女たちはささっと机の上に立てた教本に顔を隠してしまう。視線を教本へ戻した蝶子はそっと目を伏せる。その姿は真面目に授業を受ける模範的な生徒そのものだが、蝶子はすでに授業を聞いていなかった。
(ま、またやってしまった……どうしてわたしは緊張するとああやってすぐ憎まれ口を叩いてしまうの……! 褒められたら素直にありがとうでしょ。昨日だって家の
表情には一切出さず、蝶子は脳内で転げ回る。ちなみに和三郎と紺吉は家で飼っている柴犬と金糸雀の名前だ。
(はあ……今日も帰って反省会だわ……)
うだうだしてる間に授業終了の鐘が鳴り、担任教師は素早く教室を出て行った。わかりやすく丁寧な授業をしてくれる良い先生であるのだが、いかんせんまだ若く、気が小さい。とくにこの学級には問題児が二人もいるので余計にびくびくしているようだ。
その問題児の一人とは言わずもがな蝶子である。いや、授業態度や成績に問題はないが、言動や性格に難ありなのは自覚している。
蝶子の困った癖が始まったのは五つか六つの頃。
その悪癖がついた理由を説明するには、まず蝶子の家族構成を話さねばならない。
久世家の一人娘としてあらゆる教養を身につけ、
この父というのがまたいかにも真四角な帝国軍人といった風体の大男で、二人が並ぶ姿はまさしく美女と野獣、もしくは姫と魔王である。
当然というか、二人の婚姻は当時の社交界を震撼させたらしい。しかも母が一目惚れして猛アタックした末に、身分違いに渋る父を口説き落としたと聞いた求婚者たちは一ヶ月寝込んだとか。
しかしそんな美女と野獣の夫婦であるが、二人の仲はおしどりも驚く程の仲良し夫婦だった。結婚してすぐに母によく似た長男が生まれ、六年後には長女、更にその八年後に次男も生まれた。そして結婚して二十年以上経った今でも二人きりで旅行に行く。子供たちも辟易するほどのらぶらぶっぷりだ。
そんな社交界一有名と言っても過言ではない両親の元に生まれた蝶子は、これまた母の美貌をしっかりと受け継いだ麗しい兄弟に挟まれて、幼い頃から「蝶子ちゃんはお母様に似なくて残念だったわねぇ」と投げかけられて育った。
蝶子は決して不細工というわけではないが、きつい吊り目に硬い表情筋のせいでただ立ってるだけで「怒ってる?」と言われるし、女子にしては上背もあるため、余計に威圧感があった。
未だ貞淑、良妻賢母を求められる世の中に置いて、蝶子は守ってあげたくなるような可愛らしさとは真逆にいた。
言った側は悪意のない一言だったかもしれない。だがそれは、蝶子の心を固く覆った。
それからと言うものの、蝶子は無意識の内に言葉で武装するようになった。
元々、人見知りな性質だった上にキツい顔立ち、更にそこに言葉という剣と盾を持ってしまったせいで、余計に人間関係が拗れた。家族に対してはこの困った癖が出ないので、彼らは「まあそのうちなんとかなるでしょ」とのほほんとしていた。
が、そうして生きて来た十数年。人見知りが収まる距離感まで来ると普通に接することが出来るのだが、この悪癖のせいでそこまで辿り着けない。見事な悪循環である。
そのせいで友達と呼べる相手も一人しかおらず、級友ともうまくいかない。さすがに両親が心配するので、そろそろなんとかしたいのだが。
「蝶子さん、あの、よかったらこの後一緒に新しく出来たカフェーにでも……」
「ごめんなさい。小鳥みたいに群れるのは趣味じゃないですし、そんな暇でもないので。他を当たってくれますか?」
この様である。
(違うんです、私みたいなのが皆さんの中に入っては絶対気分を害してしまいますし、緊張しますし、あとこの後にお琴の稽古があるんです……また、また誘って下さいって言いたかったんです! あああああ、夕子さんごめんなさい……!)
顔を真っ青にして「ごめんなさい」と言って走り去ってしまった級友の後ろ姿を見送る。背中にはちくちくとした視線が刺さり、蝶子はいかにも気にしてませんというような顔をしながら、内心では地面にめり込むくらい土下座をしていた。本当にどうしてこうなのか。
(はあ……)
もはや瞬きより溜息の数の方が多い気がする。そんなことを思いながら、蝶子は迎えに来ていた家の車に乗り込む。
「お嬢様、お疲れでございますか? 私めでよろしければ、お話下さいませ」
「勇次郎……」
運転席から声をかけてくれたのは幼い頃から久世に仕えている勇次郎だ。父よりも年上な彼は蝶子にとっては伯父のような存在で、子供はなく、既に奥さんに先立たれているせいか蝶子を娘のように可愛がってくれていた。蝶子の悪癖も当然ながらよく知っている。
蝶子はぽつぽつと今日あったことを話した。
「今日も担任の先生と級友に憎まれ口叩いちゃったの……今日は用事があるから行けないの、でも誘ってくれてありがとう、また誘ってって言いたかったのに……」
「おやまあ」
「本当、私ってどうしてこうなのかな……」
敵意を向けてくる相手にやり返すことは別段なんとも思わない。が、そうじゃない人にもこの態度が癖になってしまっているのは人として問題である。頭では理解しているのに「でも心の中では私を馬鹿にしてるのかもしれない」なんて考えるとつい身構えて、先に攻撃してしまうのだ。
わかっている。これは言い訳で、誰かを傷つけて良い理由になるわけじゃない。わかっているのに。
「何か言葉を発する時は、まず一回深呼吸すると良いですよ。大丈夫です、お嬢様がお優しいことを、私も皆もよく知っていますからね」
「……うん。ありがとう」
沈んでいた気持ちが僅かに浮上する。蝶子は微笑んで窓の外を見た。ゆっくりと過ぎゆく街並みは既に黄金色に傾いていて、買い食いをしている蝶子と同じ年頃の女学生たちや子供を連れた女性、日傘をさした洋装のご婦人、仕事中であろう髪を撫でつけた男性たちがせかせかと歩いている。
帝都の大通りは帝都を二分化するようにして、ど真ん中にこの国で最大規模の鉄道駅があるため、人も車通りも多い。帝都の顔として古き良き面影を残しつつもガス燈やステンドグラスなど、外国の文化を取り入れた異国情緒溢れる街並みをぼんやりと眺めるのが蝶子のお気に入りだった。この美しい世界の中に自分がいると思うと、どこか自分もどこか美しいものになれた気持ちになる。
(明日登校したら、まず夕子さんに謝ろう。それで、また誘ってって言おう)
そう心に決めながら、蝶子は車に揺られながら明日に備えてもはや日課となっている脳内シュミレーションを始めた。これが功を制したことは、まあ、一度もないのだけれど。
帝都の大通りを抜けて、やや西寄りの高台にある地区に久世家のお屋敷はある。白い二階建ての洋館の前に蝶子を乗せた車は緩やかに止まった。開けられた扉から出ると、お仕着せの女性が美しい所作で礼を取る。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま、
「いえ、それが……」
いつもはきはきとしたこの女中にしては珍しく、困惑を滲ませた表情だった。どうしたの? と首を傾げると「今日のお琴の授業は中止で、旦那様からお話があるそうです」と告げた。
「え、珍しいね。お父様がまだ日も高い内からお戻りだなんて」
「そうなんです。つい先程戻られて……」
「わかった。いつもの書斎?」
「はい。お嬢様、鞄をお持ちします」
「ありがとう。ならこのまま書斎に行くね」
馴染みの女中に手を振ってから蝶子は父の書斎へ向かった。扉の前に立つと中から話し声が聞こえてくる。お客様だろうか。蝶子が呼ばれたとなると、自分に関係のある客人だろう。とんとんと手の甲で扉を叩く。
「お父様、蝶子です」
すると中から「入りなさい」と低い声が聞こえた。失礼しますと一言断って、蝶子は重い扉を開いた。書斎の中には両親と、それから見覚えのある眼鏡の男性が一人、革張りの椅子に腰掛けていた。
「あら、
丸眼鏡を掛けたスーツの男性、
対して、向かいに座る両親の顔は険しかった。父の顔が厳ついのは年中無休であるが、春の陽気のような笑みを絶えず浮かべている母がこのような顔をしているのは大変珍しい。
ただならぬ雰囲気を感じて、まごまごと扉の前で困っていると母が「こっちに座りなさいな」と手招く。母の隣にあった一人がけ用の椅子に座ると、腕を組んでいた父、夏彦がぎゅっと眉根を寄せて蝶子の方を見た。他人が見たら完全に萎縮してしまいそうな眼光だが、これは緊張している時の父の癖だ。ちなみにこれは蝶子にも遺伝している。
「蝶子、お前に大事な話がある」
「はい」
「今朝……その、東区でな。歳若い男女の心中未遂事件があった」
未遂、ということはそのお二人は生きているのだろう。
だが悲しいかな、この帝都において心中事件というのは大々的に報道されないだけで然程珍しくもない。特に東区には大きな花街と大河が流れているので、来世を誓って飛び込む男女は多い。
「実はそれが、その……うちの、
「え」
それが何か、と見ていると智治がとんでもない事を言い出した。
その昇が、心中未遂? それも。
「昇さんが歳若い女性と心中未遂……」
「蝶子さん、本当にすまない!」
ばんっと中央の
「あの、顔を上げてください。未遂ということは、昇さんもお相手の方も、生きてはおられるのですよね?」
「……はい」
「そうですか……その、ええっと……まずはお見舞い申し上げます……?」
何を言っているんだろうか。いや、しかし、突然のことで頭が追いつかない。だって一昨日、一緒に買い物に出掛けたばかりだ。その時も別段思い悩んだような様子は……気付かなかっただけかもしれないが。
「ありがとうございます、本当に蝶子さんには何とお詫び申し上げたらよいか。本来なら愚息をここまで引っ張り出して土下座させるのが筋でしょうが、溺れる前に服毒していたようでまだ意識が戻らず……幸い、今のところ命に別状はなく、意識も時期に戻るだろうと今は家内がついているのですが……まさか私共もこのようなことになっているとは気付きもせず」
智治の言葉に蝶子は「はあ」と炭酸の抜けたラムネみたいな相槌を返すしか出来ない。まだ混乱している。母から「しっかりしなさい」とやんわり睨まれた。
「あの、それでお相手の女性は……」
「そのことなんだが」
両親が一度気まずそうに視線を合わせ、ちらりと智治を見た。
「……お相手の女性というのが、その……
「は?」
思わず素の声が出た。母からとうとう叱責に近い「蝶子さん」という声を頂いてしまったが、今回は仕方ないと思う。
何しろ三枝衣緒は蝶子の悪癖にもめげることなく、とある不名誉な渾名も気にせずに付き合ってくれた唯一の友人で、親友の名前だったのだから。
「衣緒と、昇さんが? あの、人違いとかではなく……」
「事実よ」
大和の白牡丹とも言われた母、
目の前の智治だけでなく、蝶子も思わず「ひっ」と息を呑む。隣に座っている夏彦も心なしか冷や汗が浮かび、震えているように見えた。
「いえね、うちの家名に傷が付くとかは、別に構いませんのよ? 元々そんなご大層なものでもありませんもの。ですがうちの可愛い娘を裏切り、傷付けるような真似をなさったことは一体どう落とし前つけて頂けるのかしら」
「お、お母様!」
蝶子は思わず間に入った。智治が窒息しそうな顔をしている。
「あの、昇さんも衣緒も、命に別状がないとはいえ、まだ目が覚めていないんですよね? 西園寺のおじさまも心配でしょうし、私もまだ混乱しているので……今日はもうお引き取り頂いて……あの、後日また、改めて話し合いの場を設けさせて頂くわけにはいかないでしょうか」
「蝶子さん……」
智治の蒼いを通り越して白くすらある顔が蝶子に向けられる。けれど、蝶子はふいっと彼から目を逸らした。蝶子とて、今は彼を気遣う余力がないのが本音だ。
「ともかく、今日はもう休ませて下さい……この話は破談に、なるんでしょう?」
この場にいる三人に向けて問い掛けると、夏彦は短く「ああ」と頷いた。それに蝶子はただ「そうですか」と静かに言った。それしか言える言葉がなかった。
「……蝶子さん」
「はい」
「言われるまでもないかと思うが、君には何一つ落ち度はない。もしも何か、今回のことで言われる様なら言ってくれ。必ず、君の名誉を守ろう」
智治は立ち上がるともう一度、深々と蝶子に向かって頭を下げてから部屋を出て行った。その背中を蝶子は静かに見送る。
西園寺家は絹や反物を扱う商家だ。
彼自身は北の大国、
父も母も、身内には大変に慈悲深いが自分に牙を剥く相手には容赦のないお人である。あの二人を敵に回して生きていくなんて蝶子が昇だったらもう一度自害する。
貴族相手の商売は信用が第一だ。これからあちこち謝罪に回るのかもしれない。智治自身にはいつも良くして貰っていただけに、胸が痛んだ。
「……蝶子、大丈夫か」
「あなた、駄目よ。大丈夫かって言われて大丈夫じゃないって答えるような娘じゃないのは私たちがよく知っているでしょう」
「そうだったな……すまない」
「いえ、大丈夫です」
「ほら!」
もう、と唇を尖らせて夫を叱る織子を見るとつい笑みが浮かんだ。まだ頭は混乱しているが、父と母の優しさで心がほんの少しだけ解れた気がする。
「本当に大丈夫なんですけど、ちょっとさすがに疲れたので……今日はもう部屋で休みますね」
「ご飯はどうする? お部屋で食べる? 食欲はないかもしれないけど、ちょっとでも食べた方がいいわ。お腹が空くとろくなこと考えないもの」
「じゃあ、部屋にお願いしていいですか?」
「もちろんよ! よし、今日は母様が腕によりをかけて……」
その言葉に蝶子も夏彦も反射的に立ち上がった。
「待って下さいお母様それだけは」
「織子、今日は私が作ろう。君はそうだな、食後の紅茶を選んでくれ。蝶子の好きな甘いのがいいだろう。な?」
夫と娘から懇願され、織子は若干不満げであるものの、困惑したように首を傾げる。
「あらそう……? まあでも、確かに蝶子さんは昔からご飯は私のより父様の方が好きだったものね。結婚して料理をする機会がめっきりと減ったから、久しぶりに腕をふるえると思ったのに……」
残念だわという織子に、蝶子と夏彦は咄嗟に目配せして頷き合った。命が惜しくば織子を厨房に入れるな、というのが亡き祖父の代に作られた久世家の家訓のひとつとなっている。よかった。この傷心の精神状態で母の料理なんて食べたら物理的にも傷を負うところだった。父と二人、こっそりと安堵の息を吐いていると。
「あ! なら食後のデザートにお菓子を作るわ!」
まさかの第二波である。
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