第6話

 山がはじまる裾の部分をテオシベは走った。馬のように速い。私は離されないように走るのが精いっぱいだった。

 戦はやっぱり人を変えてしまうのだろうか。それとも、オサという立場が人を変えてしまうのか。

 私は生き急ぐように進むテオシベの後ろ姿を見つめながら考える。答えはどうせ出ない。

 それに別の疑問のほうがずっと気にかかる。

 どうしてテオシベは私を連れているのだろう?

 オサになったのに、それまでのように私をそばに置いてくれることはうれしい。でも、今の私がテオシベの役に立てるとは思えない。

 私の武器はわずかに石槍だけ。鉄の槍は力の強い男が優先して使ったから、私に残っているのはそれぐらいだった。敵を一人や二人殺すのがやっとのはずだ。

 暴れ馬が放たれたせいか、氾濫原を進む敵軍は停滞していた。尻込みしているというより、前がつかえているのだ。

「このあたりだな」

 ついにテオシベは山裾から敵軍のいる氾濫原のほうへ駆け下りていく。葦(あし)の中を踏み分けて、突っ込む。

 途中、弓矢を向ける敵もいたが、テオシベが鉄剣で斬って捨てた。

 その先にひときわ立派な装束のオミの里の将軍がいた。

 争いをしていない頃に、オオムロの里にやってきたこともあるから、顔を知っていた。

「オミの里の将軍とお見受けする! オオムロの里のテオシベだ! 覚悟せよ!」

 剣を振り上げて、テオシベが叫んだ。

 オミの里の将軍の顔に浮かんだのは、恐れよりもずっと強い憎しみだった。

「貴様、やはり蕃国(あだしくに)のカミであったか!」

 将軍の言葉が私にはまったくわからなかった。

「どれだけ民を操り続ければ気がすむ? 漢の北から高句麗に逃げ、続いて新羅に逃げ、ついに信濃にまで入り込んできおって。もう、ここに来てからも百年はたつだろうな」

 それはまじない言葉のように私には聞こえた。だが、テオシベはその意を解していた。

「こんな辺境の小邦(しょうほう)の者が知っているとはな。誰から聞いた?」

「異国から河内(かわち)にまで至った者などいくらでもいる。なかにはお前がどれだけ危ない悪霊かを訴えるためだけに遠路を厭わず倭王陛下の下まで来朝した者もいるぞ」

 オミの里の将軍が弓を構える。

 同時にそばの兵たちも弓を構える。

 矢がテオシベに向いている。

「信濃の地にて、この麻績那弖比古(おみなてひこ)が、その身を滅ぼしてやるわ! 今度は若い女の命を奪って、寄生しおって!」

 ……えっ? ……テオシベの命が奪われている?

 けれど、しっかりと考える時間はなかった。

 鏃(やじり)はテオシベの首をめがけていた。迷いも隙もなかった。

 否、この者たちはオオムロの里を狙っているのではなくて、テオシベを狙っていたのだ。

 私はとっさに飛び出していた。

 オミの里の敵がテオシベを殺さないといけないように、私はテオシベをなんとしても守らないといけない。テオシベが死ねばオオムロの里もおしまいだ。

 それに――私の役目は命を懸けてテオシベの身を守ることなのだ。

 テオシベの異常なほどの力はずっと見てきた。そこに私が意味を持つところは何もなかった。私では武力の足しにもならない。

 だったら、テオシベはどうして私を連れてきた?

 テオシベのために平気で命を投げ出せる捨て石がほしかったからだ。

 私はテオシベの真ん前に立った。

 その矢が私の薄い革の鎧など刺し貫くことはわかっていた。

 それでいい。ようやく、私は役に立てる。

 落ち着き払った声で、「よくやった。クルヒ」とつぶやいてくれるだろう。

 魂(タマ)の姿でその声を聞けるかな?

 しかし、それとは違うテオシベの声が耳を圧した。

「ああああああ! うせろ、妖魅(ようみ)の類め!」

 テオシベの体が私に覆いかかった。

 その瞬間、耳のすぐ近くで鈍い音がいくつも響いた。

 テオシベの体が作る壁から抜け出るように体を離して、私はテオシベの姿を見た。

 いくつもの鏃がテオシベの腕や肩に刺さっていた。

 そのまま、テオシベは前に倒れてしまうと思った。敵もそう信じていただろう。

 けれど――

「これでも死ねないか」

 諦めにも似たテオシベの声がもれた。

 顔を上げないまま、テオシベがつぶやいていた。

「オミの里の将軍、どうしてわたしがろくに供もつけずに乗り込んだと思う? この姿をオオムロの里の民に見せたくなかったからだ」

 テオシベが顔を上げた――と思った時には、その姿は消えていた。

 そして、将軍の前に姿を見せていた。

 ありえないほどの跳躍力で将軍の前に着地したのだ。

 テオシベの脚が……脚だけが丸太のように太くなっていた。

「どうせわたしは蕃国(あだしくに)のカミよ! 東へ東へと逃げて、これより東にはもはや、どこまでも黒い海が続くだけ! されど、素直に命を捨てるつもりはない!」

 剣を振るうことすらテオシベはしなかった。

 腕を動かすと、兵たちが鎧のまま吹き飛び、木や味方に叩きつけられ、絶命した。

 オミの里の将軍も悲鳴を上げる前に、体の真ん中から半分に折られた。

 私の前で敵軍が壊滅していく。

 血の香りが鼻を突き、耳障りな叫び声と泣き声は終わることがない。立ち尽くす私の命を狙う物好きなど一人も残ってはいなかった。

 しばらくすると、ヤマトの将軍が討たれたという声が聞こえた。

 それからゆっくりと死体で埋まった原の中をテオシベが戻ってきた。

 頭からも腕からも血が流れていて、左腕は垂れ下がっていた。どれがテオシベの血で、どれが敵の返り血かもわからなかった。

「クルヒ、終わった」

 テオシベの目には血とは違う透きとおったものが見えた。

「体中が痛い、どこかで休ませてくれ」

 倒れそうになるテオシベの体に私は潜り込んだ。

「わかった。高台まで行こう、テオシベ」


 原からほど近い高台には大昔に流されてきただろう岩が集まって、わずかな影を作っていた。

 私はその岩にテオシベの背中を預けさせた。横にしてしまえば、そのままテオシベが死んでしまうと思った。

 私はテオシベの瞳の奥をじっと見据えようとした。そうすると、テオシベの内側に入っていって、テオシベの心が目に見えるような気がした。

 見ること。それは、もっとも初歩的な呪術だ。

「もう、クルヒも気付いているかもしれないが、わたしはテオシベじゃない」

 戦の間、結んでいた髪の紐をテオシベはほどいた。前髪が少しテオシベの目にかかる。

「儀式の様子をクルヒにも見せただろう。あの時、テオシベは胸に槍を突き刺した。あれでテオシベの命と呼ぶべきものは消えた。そこにわたしが前のオサから入った」

 テオシベが死んだと聞かされたのに、悲しみは自分でも驚くほどにやってこなかった。

 きっとテオシベの姿をしたこの女があまりにも惨めすぎるせいだ。

「テオシベの体にカミが入った――そう考えればいいの?」

 オサを決めるツドイが殯の場である大室で行われた理由もそれで説明がつく。

 あれはオサになるべき者を生と死の境に置き、そこにカミの魂を入れる行いなのだ。

「多くの者が私をカミと呼ぶが、本当はそんな偉大なものではない。みずからの肉体を持たず、生き物の体に心を寄生させて生きる生き物というだけだ」

「肉体を持たない生き物なんておかしいじゃん」

「クルヒも魂があることは信じているな。その魂だけの生き物がわたしなんだ」

 そこから先もテオシベは時たま、口にたまった血を吐きながら、話を続けた。私はすべての話を理解したとは言えない。それでも、テオシベの言葉を聞くのが私の役目だと思った。カミではないと言っているのだから、それはテオシベなのだ。

 その体を持たない生き物はかつて、はるかはるか西の果てに生まれたという。雨がほとんど降ることのない国の巫女の頭にテオシベに入っている生き物は生まれた。

 その生き物は人間の知識と記憶を自由に使うことで、巫女の口から誰もが知らないような知恵をその土地の者に授けた。生き物の入った巫女は預言者として崇められた。

 だが、やがて、その生き物は悪しきカミとして恐れられ、退治されそうになった。

 その都度、それはほかの人や、時には獣に姿を移して、東へ、東へと逃げていった。

 どこでもそれを信じる者が現れた。一方で、邪悪な化け物として殺してしまおうとする者も必ず現れた。ついに砂ばかりの土地を越えて、コシから海を隔てた北にあたる土地にまでやってきた。そこでも里を転々として、それを信じる者たちは馬とともにコシに流れ着いた。元の土地では彼らも悪しきカミを信じる者として追われていた。

 彼らはこのオオムロの地にまで来て、オサの体に入り込んで、生きてきた。オオムロの地の民もオサが優れた指導力を発揮することを期待して受け入れた。

 けれど、オオムロの里のオサは悪しきカミであるという話も大陸からヤマトに伝わっていたのだ。

「わたしは生まれてはいけなかったのだろうな。あらゆる土地の民がわたしを殺すことに全力を尽くしている、本当にそんなふうに感じる」

 テオシベは力なく笑った。それでテオシベの長い話は終わった。

「テオシベはテオシベだよ」

 私はそう断言した。それは慰めだけの言葉じゃなかった。

「テオシベは私の身を守ってくれたでしょ。テオシベがカミだったら、そんなことをする意味はなかった!」

 しばらくテオシベは黙っていた。やがて、しゃくりあげるような声とともに、涙がたまって、傷だらけの腕に落ちた。

「本当は、わたしはクルヒを生かすつもりなどなかった」

 テオシベは手近にあった顔ほどの大きさの石に右手を乗せた。

 その手が盛り上がり、恐ろしい力が吹き込まれたみたいに、石は粉々に砕けた。それから、すぐにその左腕は元に戻った。

「わたしは寄生した生き物が本来出せないはずの力をいくらでも引き出すことができる。この力でどこまでもあがきながら生き延びてやろうと思っていた。あの時もそう思っていたんだ。だが……」

「テオシベが残っていたんだね」と私が続けた。

「そのとおりだ。テオシベの魂が抜けたところで、この体はくるおしいほどにテオシベだったのさ……」

 それから、テオシベはぼたぼた涙を流しながら、私にごめん、ごめんと繰り返した。

 だんだんと日が暮れてきた。

「テオシベ、そろそろオオムロの里に帰ろう」

 私は自分の武器である槍を手に取った。オミの里の将軍とヤマトから来た将軍が死んだのだ。ほかの敵軍も退いているはずだろう。

「いや、里には帰れない」

 ゆっくりとテオシベは首を横に振った。

「ヤマトの狙いはオオムロの里を手にすることよりも、わたしを殺すことだ。だから、わたしが死んだことにすれば、次のオサがヤマトとも話をつけるだろう」

 私はテオシベの腕の間に頭を入れて、ゆっくりと立ち上がる。テオシベの体も持ち上がる。

「じゃあ、私もテオシベについていく」

「わたしはテオシベじゃないんだ、クルヒ。お願いだから、お前は生きてくれ。死んでしまったテオシベに申し訳ない」

「そんなに私のことを気づかうってことは、テオシベはテオシベなんだよ。今だって、テオシベの心臓が動いているのが聞こえるんだ」

 どくんどくんと弱々しいが、まだテオシベは生きている。

 だったら、私はテオシベを守りたいと思う。

 テオシベは私の頭に手を載せて、優しくなでた。決して化物の手なんかじゃなかった。

 私はテオシベを担ぎながら、原へと降りていく。テオシベの体も血も焼けるように熱かった。

 血の香りが鼻につく。恐ろしい光景なのに、もうなんとも思わなくなった。

 目的地はない。多分、どこにも行きつけずに私たちは倒れるだろう。

 でも、テオシベがいるから、私はそれでいいのだ。

 テオシベが私を守ってくれたから、今度は私がテオシベを守るのだ。

 赤い太陽の光が兵士の死体も私たちも何もかもを同じように照らし続けている。

「あの太陽が私の体にも入ったら、テオシベと同じになれるのかな?」

「やっぱり、クルヒはまだ子供だな。大人じゃない」

「大人でも子供でもいいよ。テオシベのそばにいれれば」

 息づかいからテオシベの終わりが近づいているのはわかるけれど、なぜか私はとても幸せだと感じている。

 大きな、大きなお墓を作らなきゃね。


◆終わり◆

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殯(もがり)の夢 森田季節 @moritakisetsu

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