第19話 疑念

 生きていた時の名前を教えられた私が、洗面室の鏡を見つめていた時間は1分にも満たなかったと思う。

 どうしてキノがそんなことを知っているのだろうかとハッとなった時には、既に玄関扉の閉まる音が聞こえた後だった。

 部屋着にしている作務衣さむえのまま大急ぎで玄関へと向かい、扉を開けて屋外に出る。

 薄暗い屋内にずっといたせいで、午後の日差しに目が眩んだものの、手で日光を遮って何とか視界を確保すれば、ちょうどキノが屋敷の門を潜ろうとしているところだった。


「まってキノ! なんであなたは過去の私を知ってるの? 私と私の家族にいったい何があったの? 教えて!」


 私の声に足を止めたキノが、何かを逡巡するように数秒、進行方向を向いたまま固まる。そして、再び動き出すとそのまま門を潜ってからこちらを振り返り、


「螢ちゃん。僕から口を滑らせておいて申し訳ないけど、これ以上僕は何も言えないんだ。ごめん」


 そう言って、門扉を閉めた。

 格子状の門扉の向こう側で、一瞬、キノが済まなさそうな表情を浮かべる。だけど、すぐに真顔に戻ると、まっすぐに私を見据えた。

 

「それに、今の君は穂村螢だ。僕の知ってる夏目希海じゃない。なにより、怪異に堕ちる程に現世を呪った彼女の事を今更教えたところで、螢ちゃんになんの得があるって言うんだい? 螢ちゃんは今、そのせいでつらい思いをしてるんだろ? だったら、そんなことは知らないままの方がいい。それは、もう、全部終わったことなんだよ」


 喋りながらも、時折俯いて辛そうな表情をするキノに、私は返す言葉を失って棒立ちになった。 


「月坂の事で友人と会ってくる。帰りは遅くなるから、まわりと月坂に伝えといてくれるかい? ――じゃあ、いってきます」


 何か言わなければと思えば思う程、かえって何の言葉も浮かばなかった。

 遠ざかっていくキノの背中を無言で見ていればいる程、かえってキノの言葉が現実を突きつけた。


 キノの言う通り、今の私は穂村螢。

 死神と屍食鬼の身体が入り混じった私に、この身体がかつて夏目希海という人間であった事実はそれほど重要ではない。

 むしろ、今の私にとって最優先するべきは、ハチを攫った犯人を探し出して相棒を取り返すことだ。

 遠い過去に死んだ我が身を嘆き、残らず息絶えてしまった家族を思い出して足を止めている場合じゃない。


 ――だけど、このままじゃダメだ。


 増大した屍食鬼の身体に精神を侵食された状態の私は、心の内に大きな爆弾を抱えているようなものだ。

 辛いからといって、いつ爆発するとも判らない爆弾を心の奥に押し込めておいたところで、爆発の威力は増すばかりである。そればかりか、再び犯人あいつと対峙した時に、こんな弱点を抱えたまま戦えば、私は今度こそ間違いなく殺される。

 何としてもこの弱点だけは乗り越えないと、私に勝ちは無い。

 

 ならば、することは1つ。

 

 思い出せ。長い間、死神として多くの彷徨える魂を導き、悪霊や鬼と化した可哀想な誰かさんを浄化した日々を。

 たとえ元の死神に戻れなくとも、ハチを取り返すためなら外法も厭わないと覚悟を決めたあの日の事を。

 増大した屍食鬼の身体に心を飲み込まれるな。

 人間としての夏目希海、死神としての私、そしてバケモノとしての穂村螢。

 どれも「私」だ。全部、「私」なんだ!

 だったら――!


「キノ! 帰ってきたら夏目希海の事を教えてほしい。彼女も含めて、それは全部私なんだ! 私が1人の個としてここにいるのなら、彼女は私にとって欠かすことの出来ない大事な存在だから! 私は屍食鬼に堕ちた彼女の心を救いたい!」


 もし仮に、弱点を攻められないまま犯人あいつからハチを取り返すことが出来たとしても、屍食鬼としての私が執着する人間としての私――夏目希海を救うことが出来なければ、いつか私の心は彼女に蝕まれて消滅してしまう。

 ならば、私が彼女を救ってあげればいい。

 自称とはいえ私は死神だったのだ。過去の自分を救えなくて、偉そうに他人を救うことなんて出来はしない。

 致命的な弱点を抱えた私が、キノや廻ちゃんに対して「犯人あいつは危ない奴だから」なんて、偉そうに言えるわけが無いのだ。


「私は2度、あなたの前からいなくなったりはしない!」


 門扉の格子越しに、キノが足を止めてこっちへ振り返る姿が見えた。

 何かを堪えるように大きく息を吸った後、キノは震える声で口を開く。


「……その殺し文句は狡いよ螢ちゃん」

犯人あいつはもっと狡くて強い。そんな相手に致命的な弱点を抱えたまま戦いを挑むなんて、殺してくださいって言ってるようなものでしょ?」

「はは……そうだね。全く、今も昔も、ホントあなたには敵わないな……」

「どう? 教えてくれる気になった?」


 ニッと笑みを浮かべる私の前で、キノはくせ毛の後頭部を掻いて、何事かを考えるように視線を少し彷徨わせた。そのまま少しの間そうしてから、何かを決意したかのように顔を上げて、再び私の方へとまっすぐに視線を向けた。


「――分かった、教えるよ。夏目希海がどんな人だったのか。……まぁ、このことを僕に口止めしたのは、他の誰でもない、ハチさんなんだけどね。でも、そのハチさんを助けるためだ、きっと許してくれるだろう」

「ハチがキノに口止め?」

「そうだよ。真意は僕にも分からないけど」


 キノが口にした予想外の言葉に、私は首を傾げた。

 私と一緒にいる時、ハチは「わん」と吠えるのみで、言葉を発することなんて一度も無かった。それなのに、どうやってキノはハチと意思疎通を図ったのだろう。

 なにか、キノには特殊な能力があるのか、それとも……


「じゃあ、帰ったら教えるから。螢ちゃんは、それまでしっかりと休んでるように」


 物思いに沈み込もうとした私の思考を、キノの言葉が遮った。私は咄嗟に顔を上げて、キノの方へ視線を戻す。

 まあ、焦ることは無い。帰ってきたら彼女の事を教えてくれるんだし、その時一緒に聞けばいい。


「分かった、そうする。ありがとうキノ」

「お礼を言われるようなことなんかじゃ無いさ。それ以上に、僕は夏目希海に……あなたに助けられてるから」

「そっか……いってらっしゃい」


 キノは軽く頷いてから、友人と会う為に再び歩き始めた。私は少しの間、その背中を眺めてから屋内に戻ると、リビングにある2人掛けのソファで横になった。

 ぼんやりと天井を眺めていると、外でキノと会話した内容が頭を過る。


「キノは生きてた時の私を知ってて、ハチはそれをキノに口止めした、か……」


 なんとなくそう呟いて、うっすらと青く光を放つ黒柩こくきゅうを取り出し、顔の上まで持ち上げる。

 燃え盛る炎の様に揺らめくその光が、私の瞳を青く照らした。一気に集中力が増して、思考が加速していくのが分かる。


 ハチが私といた時、彼はいつも「わん」としか吠えなかった。見た目が白い雑種犬なのだから、それが当然だと思っていた私は、ハチが喋るかどうかなんて今まで考えたことも無かった。

 実際、どんな時もハチは鳴き声の強弱だけで感情を伝えてきたし、不思議と彼の言いたいことは理解できた。

 だから、キノが私の過去の事をハチに口止めされていたと知った時、私はキノが嘘をついたのだろうかと考えた。

 でも、キノにそういった仕草は見受けられなかった。しかも彼は、私が首を傾げてそのことを問い直した時、とても自然に肯定の言葉を口にした。

 きっと、あの目に嘘は無い。

 キノと正面から目を合わせた私には、それが判る。

 判るからこそ、こうも思う。


 ――キノは、私に言えない何かを隠している。


 それは私の過去の事を隠れ蓑にしてまで秘匿する内容で、決して知られてはいけない類の情報なのだろう。

 だからキノは、殊更にハチの名前を出したのではないだろうか。

 私にそれを悟らせないようにするために……


 黒柩の放つ青い光を眺めながらそんなことを考えていると、不意に強い眠気に襲われた。

 何度か欠伸を噛み殺しながら、ぼんやりとした頭で思考を巡らせるが、そんな状態でまともに考えることなんて出来るはずも無かった。


 そして、いつの間にか私の意識は、深い暗闇の中へと沈んでいった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

元死神(自称)なんですが、相棒が攫われたので取り返しに行こうと思います! ヨツヤシキ @yotuyashiki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ