第18話 本当の名前

 翌日の月曜日。私は学校を欠席した。


 結局、寂れた祠に夜明けまでいた私は、一睡もしないまま朝になってから紀乃岡邸に帰ってきた。

 かなり寝不足だったけど、学校に行くのは勉強が目的じゃないし、授業中居眠りしたところで特に問題はない。学校の先生には申し訳ないけど、今日は寝かせて貰おう。

 そんなふうに考えていたら、朝、洗面室で顔を合わせたまわりちゃんに開口一番、


「螢ちゃん。月坂はボクが見ておくから、学校行っちゃダメ」


 と言われてしまったのだ。

 そして、何か言い返すよりも早く、私は廻ちゃんに引きずられるようにして、自室のベッドへと戻されてしまった。

 鏡を見るよりも先に部屋へ戻されてしまったから自分の顔を見てはいないけど、余程酷かったのだろう。始終、廻ちゃんは私に何か言いたそうな顔をしていたが、なにがあったか根掘り葉掘り聞くようなことはしなかった。正直なところ、精神的にかなり参っていた私には、今の自分の状態を口で説明するような体力も精神力も無かったから、その心遣いはとてもありがたいものだった。


「帰りに何か甘いもの買ってくるから。絶対どっか行っちゃだめだからね!」

「分かった。約束する。ありがとう廻ちゃん」


 去り際にそう約束を交わすと、廻ちゃんは満足そうに頷いてから「行ってきます」と言って私の部屋を出ていった。

 その後、一人になった私はしばらく天井を眺めていた。


 ベッドに横たわる私の身体が、まるで鉄の塊にでもなったかのように重たい。

 もちろん、それは寝不足のせいではなく精神的なもので、その原因は私そのものにある。

 こればっかりは私自身が蒔いた種なのだから自分で何とかするしかないのだが、正直、精神的な不調というのは肉体的な不調よりが悪い。

 なにせ、自分でそれを乗り越えない限りは、いつまで経ってもその傷口は開いたままなのだから。


 私はベッドに寝転がったまま、パジャマ代わりに着ている作務衣さむえのポケットに手を突っ込んで、中にあった黒柩を左手で取り出した。

 ぼんやりと青い光を放つ黒柩を眺めながら、ハチを攫われた日の事を思い出す。

 当然のことながら、犯人あいつへの怒りと、ほとんど何も出来ないままハチを攫わせてしまった自分に怒りが込み上げてくる。


 正直に言えば、自分からあの日の事なんて思いだしたくもない。だけど、今私を苛んでいる精神的な不調を乗り越える為なら、この際、原動力はなんだっていい。

 なにせ、私の精神的な不調の原因は、外法によって賦活化した、屍食鬼の部分の奥底に眠っていた、現世への未練そのものだからである。

 まぁ、未練と言っても、その内容は焦燥、後悔、恨み、自己否定に罪悪感といったマイナスオーラのオンパレードの様なものばかりで、未練というよりはむしろ呪いに近い。

 詳しいことは覚えてないけど、おびただしいほどの呪いをこの身に引き受けて死んだという感覚だけは記憶に残っているから、屍食鬼に堕ちた私の精神状態が呪いの影響をまともに受けてたとしても何ら不思議はない。


 外法を使うと決めた時点で覚悟していたことではあったけど、実際にこれだけの負の感情に晒されると結構――いや、かなりきつい。

 死神だった時、かなりつらいことがあっても割と平気だった自分がうらやましく感じる程だ。


 それにしても、月坂君の両親が彼を気遣う姿に、私の過去の記憶を目覚めさせるスイッチが隠れているだなんて、その光景は屍食鬼だった私の未練に余程深く結びついていたのだろうか。

 両親と妹。名前は思い出せないけど、姿はしっかりと私の脳裏に焼き付いている。それを思い浮かべればすごく懐かしい気持ちが私の中に溢れてくるけど、同時に屍食鬼の部分から凄まじいほどの未練も溢れ出してくる。


 だから、私は自分自身に強く言い聞かせた。

 思い出したところで、私の家族はもうどこにもいない。今更できることなど、ありはしないのだと。


 青く光る黒柩を見ながらしばらくそうやっているうちに、急に強烈な眠気が襲ってきた。

 まあ、ほとんど徹夜みたいなものだったし、当然と言えば当然かもしれない。

 そう思いながら少し体の向きを変えて枕に顔を埋めたところで、私の意識はぶっつりと途絶えたのだった。




 あまりの暑さにじっとりと汗ばんで目を覚ました時、枕元の時計は昼の2時を指していた。

 冷たい水が欲しくなった私は、リビングへ移動する途中、洗面室へ寄って顔を洗った。備え付けの鏡を見れば、そこに映った私の顔はひどくやつれてこっちを見返していた。


 ――通りで廻ちゃんが私を部屋に連れ戻したわけだ。


 今の自分の顔を見て、あっさりとそう納得出来るくらいなのだから、朝はもっとひどかったのだろう。

 自分の顔に苦笑いを送ってから洗面室を出て、私はリビングへと向かった。


 リビングで冷たい氷水を飲んだ後、2人掛けのソファに横になってエアコンのスイッチを入れた。

 室内気温は31度。リビングの中はムッとした熱気が籠っている。今は7月だから、屋外はもっと暑いだろう。

 エアコンが効いてくるまでしばらくの我慢だ。

 相変わらず気分はすぐれないままだけど、体自体は普通に動く。

 なにより、1人の人間が怪異に堕ちる程の精神的苦痛を耐えきったのだ。我ながらよく頑張ったと思う。

 あと少し。もう少しだけ休んだら元に戻るはずだ。

 そんなふうに思ったら、つい、思ったことが口から漏れ出てしまった。


「――ははっ。私、生きてる普通の人みたい」


 1度死んだ人間が生き返って普通の生活を送るなんて事、あるはずがない。そもそも、神様の力を借りたり外法を使ったからって、たまたま実体化しただけの私が彼等と同じ人間という区分に入っていいはずがない。

 私は、ハチを助け出すまで現世うつしよを旅するだけの、単なる異邦人でしかないのだ。

 まるで現世に転生したみたいな気になっていいはずがない。

 だって、私は――


「――っ!」


 再び沈みそうになった心に全力で活を入れて、私はソファから立ち上がった。その勢いのまま洗面室へと向かい、蛇口の下に頭を突っ込んでレバーを全開に開いた。

 途端、洗面室にザーッと勢いよく水の流れる音が響き、それはしばらくの間続いた。

 後頭部から顔に伝って流れる冷たい水の感触で、沈んでいきそうになる思考を遮った後、私はレバーを戻して水を止めた。

 そして、タオルを取ろうと手を伸ばして棚を探っているところで、洗面室の入り口に立つ人の気配に気が付いた。

 同時に、私の手に白いタオルが渡される。


「大丈夫かい? まわりが心配してたよ」


 私は小さく頷くと、渡されたタオルで頭を拭き、その声の主の方へと振り返った。


「キノ、タオルありがとう」

「いや、いいさ。それよりも、まだ具合が悪いならゆっくり寝てなよ」

「大丈夫。引っ張られただけなのに、いつまでも寝てはいられない」


 そう言うと、キノは怪訝な顔で私を見つめた。私はキノと向かい合ったまま、僅かな間を置いて、ああ、と声を漏らす。

 肝心なことを全部すっ飛ばして、結論だけを言ってしまった。通りでキノが怪訝な顔をするわけだ。


「多分だけど、外法で賦活化させた屍食鬼の部分に精神が引っ張られてる。ちょっとしたことや、生きてた時の記憶を思い出しただけで、ものすごく辛い気持ちになるんだ」

「生きてた時の記憶……」

「うん。名前とかはさっぱりだけど、家族写真みたいに両親と妹の顔を思い出したんだ。外法の副作用だって解ってても、屍食鬼だったった時の未練に心を侵食されるのは、かなりきついね。でも、何とか耐えきったし、今はハチを取り返すことを考えないと」


 炭化部分を回復させるために屍食鬼だった部分を賦活化させたからと言って、今の私が屍食鬼に戻ってしまったわけではない。

 自称とはいえ私はあくまで死神。

 そのことに変わりはないのだから。


 私は洗面台に置いてあるドライヤーをコンセントに差し込んでスイッチを入れた。そして、髪を乾かし終えると、さっきからじっと立ったまま動かないキノに怪訝な顔を向けた。


「――夏目希海なつめのぞみ。螢ちゃん、それが君の生きていた時の名前だよ」

 

 突然キノが何を言い出したのか意味が解らなくて、私はしばらく呆然とする。キノは続けて何かを言おうとしたけど、すぐに俯いてそれを止めた。


「ごめん。こんなこと言うつもりなかったのに……あなたはもう、あの人じゃないってことも解ってるのに……」


 声を震わせながらそう言ったキノに、私は何も言えないまま立ち尽くしていると、彼は足早に洗面室を立ち去った。

 一人洗面室に取り残された私は、ドライヤー片手に再び鏡の方を向いた。


「夏目希海……。それが私の本当の名前……」


 懐かしい。とても懐かしいけれど、同時に胸の奥が酷くざわつく。なんとも形容し難いその感情に戸惑いながら、私はしばらくの間、鏡に映った自身の顔を眺めては、何度も何度もその名前を頭の中で反芻したのだった。

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